嫉妬

 床に落ちているプリントで足を滑らせた。何とか踏みとどまったが、逆にプリントが擦れて破れた。「あっ」おれは慌ててしゃがみ、プリントを拾い、広げる。よく見ると、数学の練習問題だった。折り目に沿って大きく破れてしまっていた。明日までの課題――舌打ちが出た。

「ちっくしょう……」

 プリントを左手に持ち、自分の部屋の全方位に首を巡らせる。改めて見直すと自分の部屋は物だらけになっており、かなり散らかっていた。

 いつもこうだ。幾ら掃除してもすぐ元に戻ってしまう。おれは自分の部屋を奇麗なまま保つということがまるでできなかった。プリント塗れの机に破れたプリントを重ねる。気分が落ち込んでいると、普段気にならないことにまで苛立ちが沸き起こる。

 ここにいるのが嫌になった。部屋を出て廊下の突き当り――寝室に行く。布団の上に身体を投げ出し、テレビをつける。布団の隣にある教科書を机の下から引っ張り出し、白紙に敷いて寝そべったまま絵を書く。シャーペンを走らせながら、顔だけを上げてぼんやりとテレビ画面を眺める。

テレビ画面の中で白衣を着た男性が握りこぶしを作りスーツ姿の男に喋っている。画面の右上に浮かぶテロップ――感動の病院再生。成功に導いた絆と努力!

「何であきらめるんだ」

「だって……」

「おれらが見捨てたら患者さんはどこに行けばいいんや。患者さんみんな、おれを信じてくれてる。誰かに期待されるってことは幸せなことやんか。今こそ力を合わせよう」

 ドラマ仕立てのドキュメンタリーがやっていた――耐えきれず、消した。

 おれは今まで生きてきた中で何もできなかった。まったくと言っていいほど成功体験を持っていなかった。だから、面白いことも言えず、誰とも繋がれない。だから、今日もおれは一人なのだ。本当は一人が嫌でも、能無しのおれには、友達を作ることすら許されない。

 期待なんかされてもおれはなにもできない。周りを落胆させ、見下され捨てられる。同級生とせっかくよく話すような仲になれても、いつの間にか関係はなくなっている。

 人生のどこを切っても惨めなおれがいるだけ。どうしてこんな思いをしなきゃならないんだ――どうしておれの生き方はこうなんだ。おれの何が悪い。おれが何をした。なにもとり得がない奴だって満足した生き方が出来ても良いじゃないか。

 おれにセンスがないから。

 それが全てだ。

 寝室を無音が包み込む。とたんに足元の痛みが気になりだす。爪の先が、布団にこすれて痛い。短く切った爪が鋭すぎる。きっと爪切りの質が悪いせいだ。きっとそうだ。おれは手を止めた。うんざりした。おれが書いた絵を俯瞰する。すべてが歪んでいるように見える。おれは立ち上がり、自分の部屋に戻った。部屋が散らかっていようが整頓されていようが、結局おれという人間の調子には何の関係もない。おれ事態がそもそも出来損ないだから、どこで何をやっていても無駄なのだ。

そんな当たり前のことに、今更気づいた――考えたくも無かった。

 書きかけの漫画を取り出して眺める。一コマだけキャラクターを書いたが、とたんに嫌気がさしてやめる。何をやってもおれはだめだ。漫画を書いてもつまらない。おれがつまらないから面白いものなんてかけるはずがない。

「お兄ちゃん見て」

 途方に暮れて机に向かっていると、明るい声が背中に呼びかける。振り返った。制服姿の妹――京子が、宮脇書店のレジ袋から漫画を取り出した。

 妹の手元にある漫画――「ヒーローインサイド」。視界がそれをとらえた瞬間に猛烈な感情が奥底で膨れ上がる。たまらず目をそらしてしまいそうな衝動に襲われた。おれは瞬きをしきりに繰り返し、それをごまかした。

 ヒーローインサイド――少年ジャンプで連載されている漫画。ツイッターなどのSNSでも、掲載されるたびに話題になり、絶賛の声が上がる。昨日ちょうど十五巻が発売され、妹とおれで折半で買っていた。

「最新刊でたから今日買ってきた。わたしもう読んだから、お兄ちゃんも読みなよ」

 おれは妹から漫画を手に取り、指先でページをとめくる。

 ヒーローインサイドは上手かった。話のテンポもさることながら、何よりさりげないキャラクターのポーズの格好よさが魅力的だった――心臓が握りしめられたかのように、胸から全身に痺れと苦痛が広がっていく。おれもこんなふうに書きたい――書けない。あたりまえの話。だけど、許せない。

 おれは自分に何の才能もないことをいやというほど自覚しながら、身の丈に合った暮らしを受け入れることができない。

「お兄ちゃん面白いでしょ」

「うん」

 気のない返事を、あくまで漫画に没頭しているが故のものだと装った。本当は錯乱しそうなほどに胸糞が悪くなっていた。それを悟られないための、淡白な返答。

 不機嫌さ、刺々しい態度にならぬよう、おれは努めなければならなかった。

 見るのも嫌だった。嫌いなわけじゃない。むしろ好きだった。完璧だった。おれが天才だと思う要素、欲しいものを全て持っていた。

 だからこそ正視したくないのだ。耐えられないのだ。

 スマートフォンをいじり、ユーチューブを開く。ヒーローインサイド考察――検索する。鮮度のいい、五十万前後の、再生回数が比較的落ち着いている動画を探して再生する。

 今週の伏線まとめ。この人は天才。神。センスが違う。狂ってる。現代の天才。漫画がうますぎ。かっこいい、それに尽きる。

 今日のヒーローインサイド、見せ方がうますぎる――視界が回転する。ヒーローインサイドに対する絶賛を見る度に胸くそが悪くなる――眩暈がする。本当に嫌だった。動画内容もさることながら、コメント欄がこの上なく不快だった。見たくない――けれど見てしまう。自分の身近にある苦痛の元を無視して生きるという選択肢が、どうしてもおれにはとれない。

 頭の中で言葉を並べ立てる。幾らすごかろうが、手塚治虫に比べたら大したことはない。幾らすごかろうが、所詮は現代の漫画の中でほんの少し、人気が高いというだけに過ぎない。実際、発行部数が歴代の漫画に比べて圧倒的に優れているわけではなかった。

 言葉を理論に変える。それでも――納得できない。どう考えても完璧な理屈を組み立てているのに、おれ自身がそれを飲み込んで納得し、安心することができない。

 嫉妬だった。でもそれを心の底で認めることも出来ない。この醜い感情をどう処理したらいいのかわからない。妹にそんな姿は見せられやしない。消えて欲しかった――この漫画もファンも。キャラクターも好きなのに、絵柄も格好良くて好みなのに、なぜだかおれは不快感を抱いてしまうのだ。それを押し殺すことが義務づけられているのだ。好きであるから、身近だから、おれ自身が誰よりそのセンスを認めているから、嫌で嫌でたまらなくても無視できないのだ。

 もうすぐ中間テストと資格試験を控えているのに、勉強そっちのけで絵を描く。絵――

 絵にまつわるエピソードで、一番嫌なことを思い出した。一度頭に浮かんでしまったらもう終わりだった。

 おれは小学校低学年までは絵が上手いと皆に褒められていたし、おれもそれを自分の数少ない成功体験として引きずっていた。他に取り立てて出来ることもなく、体育の授業では足を引っ張るばかりのおれにとっては、それがおれにとっての唯一の拠り所だった。

 ある日の図工の授業で席が近い人同士でグループを作り、共同で大きな画用紙に絵を描くというテーマが課された。絵の具を用意し、机を固めて、床にスペースを作り、新聞紙を引く。その上に画用紙を乗せる。

「藤沢くんって絵が上手いんでしょ?」

 クラスの女の子――田井が画用紙を触りながらおれに話しかけてきた。

「え、なんで?」

 質問の意図が分かっていて、あえて聞いた。気分が高揚していく。

「島津が行ってたから。二年のとき木の絵で表彰されたって」

 頬の筋肉が盛り上がっていくのが分かる――自分でも不自然なほどの笑みが多分、浮かんでいる。島津は一年生の時からずっとおれと同じクラスだった。その島津と田井がよく話しているのも見ていたから知っていた。

「ああ……まあね。ほどほどにやるよ」

 踊るような快楽に目が回る。どうやってみんなを驚かせてやろうか。

 鉛筆を手に持った。先生からは大まかに鉛筆で下書きして、それから輪郭を描いて絵の具で塗ればいいと言われていたからだ。

「大きなドラゴン描こうぜ」

 おれは言った。些細なふりをして。

「いやお城の方がいいって。なあ」

「うん、そうだね」

「ドラゴンってなんか子供っぽいからやだ」

 世界が色褪せたような気がした。

 結局、おれの案は採用されずに他の五人で話は進んだ。中世の感じの城を描くことになった。話し合いの際におれは口を開くことが出来なかった。おれの世界は罅割れた。

 それでも、決まったものは仕方なかった。自分のアイデアが採用されなかったとして、そこまで悲観することではない。皆の言うとおりにして、仕上げを上手くやればクラス中に驚いてくれるはずだ。木の絵を描いて賞を貰えたときのように。おれは余っている背景に色を塗った。青い、綺麗な空を描いて見せたかった。

 出来た絵は班ごとに教室の後ろに飾られた。「きれい」「これめちゃかっこいい」皆、休み時間に後ろに溜まり、それぞれの絵について語り合っていた。

 おれは皆には交じらず、自分の席に座り、こっそりと皆の会話を聞いていた。この空すごくいい――その言葉を待っていた。浮き足立っていた。期待感は膨らんで、破裂してしまいそうだった。

「何かここら辺がいまいちだね」

「確かに。なんか違うよな」

「合ってないし、シンプルにださくね」

 おれが塗った箇所の空を指さして男女が口々にそう言った。冷水を浴びせられたようだった。おれの絵に対して浴びせかけられた言葉はおれが期待していたどの言葉とも違っていた。

 おれの絵について語っていたクラスメイトは別の班で、おれは彼らと殆ど話したことがなかった。つまり、いまいち――その言葉は嫌がらせでも何でも無い、正直な感想だった。おれの班の絵について女子が座っているおれに気づいた。目が合った。

「これ、藤沢くんが描いたやつ……」

「あ、そうなんだ……いや、別にそんなことないよ」

 クラスメイトはおれに愛想笑いを向けてきた。必死に繕いながらも、おれの絵を肯定する言葉は出てこない――おれにセンスがないという、答えを突きつけられた。

 誰にも見られぬように、机の下で拳を握りしめた。泣きたかった。自惚れ、そして失意。足りない自分の力――ここにいたくなかった。何処に行けばいいのかも分からなかった。

「見てー! このドラゴンめっちゃかっけえ」

「ドラゴンっていうか竜でしょ」

「同じやん」

 糸川――おれと同じ班の男子が、他の班の絵を見て感嘆の声を上げていた。糸川はおれの提案を子供っぽいと切り捨てた。その糸川がおれが提案したドラゴンを見て、目を輝かせ、乏しい語彙ではあるが目一杯の賛辞を送っている。おれ以外の世界が切り離されたように、凍り付いた。

 描かれた竜をおれも見つめた。確かに女子の言うとおり、ドラゴンというより中国系の竜だ。しかし、糸川にとってはこの竜もドラゴンなのだ。それがおれの自尊心を切り刻んだ。

 炎を纏った竜は力強く、暴れ出しそうな熱を持っていた。誰が見ても印象に残るだろうことは間違いなかった。本来糸川が断るはずの、ドラゴンという題材ですらも、素晴らしいセンスのある誰かがこうして描けば、彼を魅了する――感動させることが出来る。おれにはそれが出来ない。糸川はそう判断した。だからおれの提案を却下した。それは正しかった。

 全てが壊れた気がした。身体の芯が切り刻まれたように痛みを訴えた。握っていた拳はいつの間にか開かれていた。糸川と同じように、おれもあの竜に圧倒されていたのだ。

 おれは絵が上手い自分を引きずっていた。もうその頃のおれは何処にもおらず、立ち尽くしているのは小原を初めとする同級生に抜かされていったおれだけだった。開いた掌で足をまさぐった。掴めるものは何もなく、そこに感じることが出来るのは冷たさのみだった。

 それからおれは高校生の今まで絵を描くのをやめた。

 母にそのことを聞かれた際には飽きたとだけ言った。本当は何もかも思い出したくなかったのだ。妹が美術部に入りさえしなければ、一生書くつもりはなかった。

 ただの一授業。本当に些細なもので、翌日になると誰もあの授業で描いた絵を引きずることはなかった。あたりまえだ。それでも、おれの心は切り刻まれ、深い劣等感となって今も自分の底にこびり付いていた。

 いつもは勉強していたが、今日はとてもじゃないがそんな気になれなかった。自分の怠惰さと能力のなさに気分が落ち込んでいた。母が自分の部屋に来たときだけ、教科書を開いて勉強しているふりをする。何もかもやってられなかった。すべてを投げ出して逃げたかった。

 そのためにどうすればいいのかすらもわからない。

 なんでできないの――音楽の先生の声がこだました。

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