第15話 帰郷

 リュドミラの王都脱出から数日後、リシュコフ公爵領の領都で20代前半と見受けられる青年が自身の屋敷の奥の部屋へと急いでいた。

 目を引く長身に濃い金髪を短く整えている。その体躯は強くしなやかに鍛え上げられていて隙がない。精悍な顔は真剣な表情で真っ直ぐに前を向いている。そして、青と白を基調にしたリシュコフ公爵家騎士団の制服を身につけていた。

 青年の名はアレクセイ・コフトール。リシュコフ公爵領において公爵家騎士団の団長を務める人物だった。


 アレクセイは僅か22歳の若さながら、その卓越した武技と指揮能力の高さを買われて2年前に公爵家騎士団の団長に大抜擢された男だ。

 そして彼は、リシュコフ公爵家の者達が捕縛されて以来、強烈な悲嘆と憤激と憂慮と焦燥に苛まれながらも奮闘を続けていた。


 まず、公爵捕縛の報が届いた時点でアレクセイは即座に軍を招集した。だが、その集合が終わる前に公爵が家族諸共処刑されたという驚愕すべき悲報が続く。

 この悲報を聞き、軍の中には即座に決起し王都への進軍を主張する者もいた。また、弱気になり戦意を喪失する者も、更には公爵家を見限り早くも鞍替えを考える者すらいた。


 アレクセイは、そのような者達を懸命になって纏め上げた。リュドミラだけは刑場から引っ立てられて王城に戻されたという報も同時にもたらされていたからだ。

 リュドミラが生きているならば彼女の為に最善を尽くす。アレクセイはそう決意していた。

 彼はリュドミラに対して、主君の娘という以上の感情を抱いていた。


 リュドミラの命を救うためには軽挙は慎まなければならない。そう説いて逸る者達を抑え、また、弱気になる者にはリュドミラある限り希望は潰えていないと励ました。そうしてアレクセイは公爵家の騎士団と兵の信頼を勝ち得、迅速にリシュコフ公爵軍を1つに纏め上げる事に成功したのである。

 このアレクセイの働きは、値千金の価値を持つものだった。

 王都から近衛騎士の一団がやって来た時に、リシュコフ公爵領は揺るぐことなく団結してこれに対応できたからだ。

 これは、国王ゲオルギイにとって大きな誤算だった。


 もしも、その時リシュコフ公爵領が乱れその軍が一致団結していなかったならば、少数の近衛騎士によってリシュコフ公爵領は制圧されてしまった事だろう。

 そうなれば、情勢は国王有利に傾き王都や王国の情勢も今ほどの緊迫したものにはなっていなかっただろう。

 当然、脱獄したリュドミラに出来る事も相当限られたはずだ。或いは、実質的に打つ手なし、という状況に追い込まれていたかもしれない。

 この点でアレクセイは大抜擢に応えるだけの働きをしたといえる。


 近衛騎士達との交渉もまた、アレクセイが中心になって行った。

 近衛騎士達は、リュドミラの命を助けたければ武装を解除して降伏しろと告げた。また、命令に従うならば、国王にはリュドミラにリシュコフ公爵家を継がせるつもりもある。だからこそ、リュドミラだけは殺さなかったのだ。などとも口にした。

 だが、アレクセイはこれを敢然と拒否した。言うまでもなく、国王の言葉など最早微塵も信じられなかったからだ。


 国王ゲオルギイと王国政府の狙いはリシュコフ公爵軍を武装解除させ、領を制圧する事に違いない。そして、それを武力だけで達成する事が出来ないからこそ、リュドミラを人質にして武装解除を要求しているのである。

 つまり、武装解除に応じれば、その時点でリュドミラは用なしとなって殺されてしまう。逆にいえば、公爵軍が健在なうちは国王はリュドミラを殺せない。

 その事を理解したアレクセイは、近衛騎士たちに対して一歩も退かずに対抗していた。

 そうして、リシュコフ公爵領でも事態は硬直していたのだ。


 といっても、アレクセイに休む間も気を緩める余裕も全くなかった。近衛騎士との交渉は気が抜けないし、軍を纏め続ける事も簡単ではない。

 本来なら、一刻も早くリュドミラを救出する策を講じなければならないのだが手が回らない。

 アレクセイは自身の不甲斐なさに歯噛みする思いだった。

 そしてまた、大恩ある公爵一家と、そしてリュドミラへの思いは、彼の精神をかき乱してもいた。


 そんなアレクセイが急いでいるのはリュドミラ帰還の急報を受けたからだ。

 アレクセイがその部屋に着き扉を開けると、そこに待っていたのは確かにリュドミラだった。

 外から見とがめられない為に部屋の窓はすべて閉められ、室内の明かりは燭台に灯された蠟燭だけだ。

 その薄暗い部屋の中に、リュドミラがいた。

 彼女は既に旅装を解き、白を基調にした簡素なドレスを身に付けている。室内には大きなソファーも置かれていたが、リュドミラは1人で立っていた。


「ッ!」

 リュドミラの姿を目にしてアレクセイは感極まって一瞬言葉を詰まらせた。だが、直ぐに我に返って、扉を閉め、片膝をついて頭を下げる。そして謝罪の言葉を述べた。

「公爵様大事の際に、何の力にもなれず、また、御身をお救いすることもできず、誠に、誠に申し訳もございません」


 リュドミラが静かな声で言葉を返す。

「いいえ、あなたには感謝しています。よくぞ我が領を守り抜いてくれました。おかげで反撃する事も可能というもの。

 むしろ、私たちが不甲斐ないばかりに、苦労をかけ、すまなく思っています。

 ですが、私が戻った以上、雌伏の時は終わりました」

 その声は静かだったが、確固たる決意が感じられる。


 アレクセイも裂帛の意志を持って応えた。

「はい。かくなる上は、怨敵ゲオルギイとその周りの者どもを、必ずや根絶やしにしてみせます」

 主を殺したゲオルギイと共に天を戴く事はあり得ない。

 公爵家のただ一人の生き残りであるリュドミラが帰還を果たし、そして戦う意思を示した以上、最早迷う事は何もなかった。力の限り命果てるまで戦うのみだ。


「頼もしく思っています」

 リュドミラはそう告げ、そして、改めてアレクセイに問いかけた。


「ところで、ゲオルギイは、私だけを殺さなかったのは、私にリシュコフ公爵家を継がせるつもりがあったからだ。などという言葉をあなたに伝えたそうですね」

「はい。左様です。無論、あの者の言葉を信じる事など微塵も出来ません。虚言と考えておりました。ですが、リュドミラ様だけはご無事とも伝え聞いていたため、軽挙は出来ぬと考え挙兵は思いとどまっておりました」


「ご無事、ね」

 リュドミラは、皮肉気な口調でそう言うと、少し間をおいてからまた語り始めた。


「あなたにだけは、事実を私の口から伝えようと思います。

 私を殺さなかったのはリシュコフ公爵家を継がせるためだ、という言葉は紛れもなく虚言です。あの男が私を殺さなかった本当の理由は、私を凌辱する為、だったのだから」

「……、……ッ!!」


 アレクセイが反応するのに、若干の時間を要した。彼には、その言葉が意味する事を直ぐには理解できなかったからだ。

 そして、それを理解した時、アレクセイはその身を硬直させ、息を詰まらせた。


 アレクセイがその意味をまだまともに受けとめられず、反応すら出来ないうちに、リュドミラは言葉を続けた。

「それだけではありません。あの男は、その後私を地下牢に幽閉し、多くの看守たちをけしかけました。私は、それからずっと、犯され続けていたのです。何人も何人もの男達に」


「なッ!」

 余りの事に、アレクセイは声を抑える事ができなかった。

 重い鉄の棒で頭を思い切り殴られたような衝撃が走り、目の前が暗くなる。そして一拍後にその身が震え始める。その口からは、呻き声が漏れた。

「……ゥ、……ッ、……クッ」


 リュドミラの告白は、余りにも衝撃的過ぎた。

 アレクセイは歯を食いしばって絶叫しそうになるのを懸命に堪えていた。その両手も血を流さんばかりに固く握り締められている。彼は、リュドミラがそのような目にあっている事を、今の今まで想像もしていなかったのである。


 アレクセイは、例え敵対したとしても貴人に対しては礼を持って遇するという事を、当然の常識と考えていた。

 まして、国王側はリュドミラを人質として使っているのだからその身は保護されているはず。と、そう思っていたのだ。

 だが、事実を知った今、その事に思い当たらなかった過去の自分を殺したいと思うほどの後悔に苛まれていた。


(……ッ、領土を守っている場合ではなかった。一刻も早くお救いすべく、私1人だけでも王都に潜入すべきだった。私は、何と、何と愚かだったのだ……。リュドミラ様を、リュドミラ様が苦しんでいる時に、私は、私は、何を……)

 リュドミラの苦しみを知らずにいた己が許せなかった。


 アレクセイは、衝撃に耐えかね、崩れるように両膝を床に着き、両手も床に下ろして跪き、額を強く床に打ちつけた。そして、そのままの姿勢で、絞り出すように謝罪の言葉を述べ始める。今のアレクセイには、人の言葉を発する事すら難しかった。それほどに彼の心は乱れていた。

「も、申し訳、ございません。誠に、も、申し訳も、ありません。申し訳……」

「アレクセイ、あなたが謝る必要はありません。あなたは何も悪くはないのだから」

 アレクセイは、その言葉を受けても身を起こすことは出来なかった。


 リュドミラの言葉が続く。

「あえていうならば、善良過ぎたという事だけが問題でした。あの者の悪辣さを想像するには、善良過ぎたのです。あなただけではなく、私たち全員が。

 それだけが私たちの過ちです。

 善良さでは、何も守れない。強さがなければ。それが世の真理です」

 その言葉を聞いたアレクセイは、謝罪の言葉を述べる事は止めた。だが、そのまま動きを止めてしまう。

 彼が、真面な思考を取り戻す為にはもう少し時が必要だった。

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