闇に咲く花――全てを奪われた令嬢の復讐譚――

ギルマン

第1話 地下牢の令嬢

 アースマニス大陸中央北部に位置するオルシアル王国。その王都スコビアの中央に建つ王城には地下牢が設けられている。

 地下牢は、地上の華美な宮殿とは正反対に粗雑な作りで、管理も余り行き届いていない。

 そんな陰鬱な地下牢の薄暗闇の中に、一人の若い娘が、無残な有様で囚われていた。


 その姿は哀れなものだ。

 女性にしては長身のその身には粗末な貫頭衣を一枚着ているだけ。そして、石畳の床に敷かれた薄汚れた毛布の上に、苦しげな様子で仰向けに横たわっている。両手は体の前で金属製の手枷を嵌められていた。

 貫頭衣には袖がなく、丈も短く、両腕と太腿の大部分が顕になっている。その、大層美しかったはずの白肌には、卑劣な暴力の跡である無数の傷が残り、汚れもこびり付いていた。

 輝くほどに美しかった癖のない長い金髪も、今は薄汚れて乱雑に広がっている。瞼は閉じられ、ブルーダイヤに例えられた碧い瞳を見ることは出来ない。


「ハァ、ハァ」

 娘の口から、弱弱しく苦しげな息が聞こえる。重い病に冒されているようだ。

 娘は、虐げられ、責め苛まれ、そして今や病に罹り死の淵に瀕していた。


 そのような有様でも、それでも尚、娘は美しかった。

 その蒼白な顔には、無数の青あざがあり、唇は切れ、汚れがへばり付き、そして、冷や汗を流し、表情は苦しげに歪んでいる。しかし、その容貌が素晴らしく整っていることに違いはない。

 顕になっている手足は、汚れ果て傷つけられていても、細くしなやかな見事な造形までは損なわれていない。

 貫頭衣の上からでも、腰の深いくびれや、細身な身体の割には豊かな胸のふくらみなどの、均整の取れた魅力的な体形を窺い知ることが出来る。

 もしも、このように汚され、痛めつけられ、やつれ果てていなかったならば、誰もが見蕩れるほどの、凛々しく、美しい姿の娘だったことだろう。そのような事を察することが出来た。

 

 娘は、本来なら、このような有様になることなどありえないはずの者だった。

 彼女の名はリュドミラ・リシュコフ。このオルシアル王国において、最有力の貴族リシュコフ公爵家の令嬢だった。歳は17歳になったばかりだ。

 そして、僅か十数日前までは王太子の婚約者だった。王母も王妃も既に亡くなっており王女もいないオルシアル王国においては、最も尊ばれるべき女性だったはずなのである。


 事実、貴族達の多くはリュドミラの事を尊び、彼女はその端麗な美貌と麗しい姿、そして洗練された立ち居振る舞いから、社交界に咲く一輪の美しき花と称えられていた。


 そのリュドミラが、このような境遇に追いやられる事になったきっかけは、年若い貴族の子弟らを集めた王家主催のパーティでの出来事だった。

 リュドミラの婚約者だった王太子ジュリアン・ラフマノスは、あろう事かその場でリュドミラとの婚約破棄を宣言したのである。


 その時ジュリアンの傍らには、お気に入りの男爵令嬢マリアンヌ・メヴィルがいた。

 そして、その2人の左右には1人ずつ男が立っている。

 右に立つのは、長い黒髪を後ろで束ね、眼鏡をかけたひ弱な印象を与える優男。王国宰相アルティーロ子爵の嫡男エドアルト。

 左には、赤毛を短く刈り込んだ、鍛えられた長身の威丈夫。近衛騎士団長ゴノス子爵の嫡男フョードルだ。全員リュドミラと同年輩の者達だった。

 国王ゲオルギイは既に退席していたが、宰相と近衛騎士団長の縁者を従えているということは、信じがたいことにジュリアン王太子の行いは、王と王国政府の中枢も承知の上の事なのだろう。


 ジュリアンは明るいブラウンの髪を肩まで伸ばし、黙っていれば貴公子然として見える整った容姿をしていた。

 ジュリアンはその顔に怒りの表情を浮かべている。しかし、心底怒っているようには見えなかった。何か怒りの裏に喜悦を忍ばせているように見えるのだ。

「リュドミラ、貴様の傲慢と不敬には愛想が尽きた。貴様のような低劣な女に、私の伴侶となる資格はない」

 ジュリアンはそう言い放つと、続けてリュドミラの非を論った。それは、主観に基づくただの誹謗中傷でしかなかった。


「挙句の果てに、マリアンヌに危害を加えるとは」

 そして、そんな事も口にした。これも純然たる言いがかりだ。リュドミラはマリアンヌに対して何かをしたことは一度もない。

 だが、マリアンヌ・メヴィルはジュリアンの左腕に縋りついて、いかにも哀れな被害者というように身を震わせている。


 マリアンヌは、ウェーブのかかった赤みをおびた金髪を長く伸ばし、美しいというよりは可愛らしいといった雰囲気の容貌をしていた。身体も小柄で華奢。その割りに胸は大きく、その胸をジュリアンに押し付けている。

 男の庇護欲を刺激する容姿と媚びる態度は、リュドミラとは正反対といえるものだ。


 リュドミラはこれには抗弁した。

「殿下にご不快な思いをさせてしまっていたならば、私の不徳の致すところ。謝罪いたします。

 ですが、メヴィル男爵令嬢に危害を加えたなどという事実はございません」


「見苦しいですよ、リシュコフ公爵令嬢殿。確かな証拠が揃っています」

 そう告げたのはエドアルト・アルティーロだった。

「証拠とは?」

 リュドミラがエドアルトに鋭い視線を向けて問う。


「目撃者による多くの証言があります。そちらにいるゴノス殿もその1人。間違いないね? フョードル」

「ああ、間違いない」

 フョードル・ゴノスはそういい切った。


 リュドミラは、視線をフョードルに動かして、また問うた。

「それは、何時、何処でのことか?」

 その問いに対して、まともな答えはなかった。


 突然の事態に驚いていた回りの令息、令嬢たちも、その多くはリュドミラに味方するような雰囲気になっている。

 そして、リュドミラがエドアルトやフョードルの言説の矛盾をつこうとすると、ジュリアンが大声を上げた。


「もういい、貴様の言い訳は聞き飽きた。リュドミラ、貴様は、今この瞬間から私の婚約者ではない。貴様がこの場にいるだけで不愉快だ、今すぐに退席しろ!」

「……承りました」

 リュドミラはそう告げると、努めて平静に振舞い退出した。

 相手が聞く耳を持たないのは明らかだ。

 それに、リュドミラもこれ以上ジュリアンらと話したくもなかった。


 元よりリュドミラはジュリアンに好意を持っていなかったし、尊敬もしていなかった。その点で「不敬」という指摘だけは事実だといえる。

 といっても、リュドミラはそれを態度に表した事は一度もないし、何の非もない。

 どちらにしても、この一方的な婚約破棄が驚くべき暴挙であることに違いはない。 


 リュドミラは、ジュリアンがずっと自分に対して冷淡で、あえて見せ付けるかのようにマリアンヌを寵愛していることを承知していた。いずれ、婚約解消という運びになるかも知れないとは思っていた。

 だが、まさかこのような暴挙に出るとは思ってもいなかった。

 これでは、王家とリシュコフ公爵家の間に修復不可能な溝を作ることになる。リュドミラには、この婚約破棄の一幕は正気を疑うほどの愚挙だと思えた。


 だが、今にして思えば、その暴挙も策略の内だったのだろう。




 婚約破棄の顛末を知ったリュドミラの父ロシエル・リシュコフ公爵は激怒し、その日のうちに王家に対して痛烈な抗議文を送った。

 当時公爵一家は揃って王都の公爵邸に居たのだが、その公爵にとってもこの事態は寝耳に水だった。

 このようなことになっては、王家と縁を結ぶなどこちらから願い下げだが、余りにも非礼、非道な行いに対しては、抗議しなければ貴族の面目が立たない。


 憤懣やるかたない公爵に対して、言い分を聞くから登城するようにとの王命が届いたのは翌日のことだった。

 公爵は直接王を問い質すと意を決して登城した。リュドミラの1歳年上の兄ヴァレリーも、どうしても直接抗議したいと告げて同行した。

 そして、両者共にその場で捕縛された。


 王太子のリュドミラへの行いに憤る余り、王を害して謀反を企てたというのである。

 無論、ありえない冤罪だ。もしも、本当に反逆を意図したなら、のこのこと親子揃って王城に出向くはずがない。即座に領土に戻って挙兵の準備を進めたことだろう。


 だが、国王ゲオルギイは全く聞く耳を持たなかった。

 公爵邸には近衛騎士達が差し向けられ、公爵夫人エルミラとリュドミラ、そしてリュドミラの5歳年下の弟ミハエルも捕らえられた。

 そして、まともな審議もなく即座に公爵家一族に死刑が言い渡された。


 そうすると予め決めていたとしか思えない強引な行いである。最初から公爵家を滅ぼすための策謀だったとしか考えられない状況だ。

 その事を証明するかのように、翌日には公爵達の死刑が執行された。反攻する間を与えない為に違いない。

 実際、公爵家の家臣らは、その間に何ら有効な手を打つ事も出来なかった。


 非情にも、家族達はリュドミラの目の前で次々と処刑されていった。だが、なぜかリュドミラだけは殺されなかった。

 そして、刑場から引き立てられ、再度王城へと連行された。


 リュドミラが連れて行かれたのは、国王ゲオルギイの私室だった。

 そこに、ゲオルギイ1人だけが待っていた。

 ゲオルギイは息子と似た容貌で、若い頃は見た目は良かったのだが、40を過ぎた今は体に肉がつき始めている。よく言えば、恰幅が良い容姿とも言えるが、はっきり言えば太り気味だ。


 リュドミラは、飾り気のない質素な白いワンピース状の服を身に着けただけで、両手を後ろ手に縄で縛られたまま、国王の前に引き出された。 

 国王の前に立ったリュドミラは、歯を食いしばって激情に耐え、射抜くような瞳で国王を睨み付けた。


 突如捕縛され、家族が目前で次々に処刑されるという悪夢のような事態にあって、リュドミラは絶望と悲しみに打ちひしがれていた。心中では泣き叫んでいた。

 だが、それでも、最高位の貴族家の一員であるという誇りが、無様な姿を晒す事を拒んだ。

 リュドミラは、怒りと憎悪に縋って、悲しみと絶望を一時振り払い、リシュコフ公爵家最後の一人としての矜持を以って国王と相対した。


「今更、何の用があるというのです」

 リュドミラは気丈にも王に向けてそう言い放った。

 実際、何故自分が国王に呼ばれたのか、リュドミラにはその意味が分からなかった。

 それも当然だろう。国王ゲオルギイが意図していたのは、リュドミラには想像もつかない下衆なものだったのだから。


 ゲオルギイはいやらしい笑いを浮かべながら告げた。

「用というのは他でもない。折角だからそなたに、女の悦びというものを教えてやろうと思ってな」

「……?」

 そう言われても、リュドミラには直ぐに意味が分からなかった。


 ゲオルギイは邪な笑いを深めつつ、更に告げた。

「そなたの身体をたっぷりと可愛がってやろうというだよ」

 そして、リュドミラに向かって歩を進める。

 

 ゲオルギイの欲望を帯びた視線がリュドミラの身体を嘗め回すように動く。

 その欲望をむき出しにした様子を目にして、ようやくリュドミラは国王のおぞましい目的を理解した。

「な!? まさか」

 そんな声を上げるリュドミラに、ゲオルギイがにじり寄る。


 もしも、武器を手にして2人が相対したなら、リュドミラが勝っただろう。リュドミラは、本業の騎士には及ばないものの、護身用という以上に剣の扱いを修得していた。

 だが、両腕を拘束された今の状況では抗すべくもない。

 リュドミラは身を翻し逃げようとした。だが、容易く追いつかれ組み伏せられてしまう。


「やめろ! 貴様ッ! 離せ! つッ! くッ、うぅ、あッ」

 リュドミラは必死に抵抗した。だが、それも結局は無駄に終わる。彼女の純潔は手折られ、無残にも散らされた。

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