119、大広間にて、オオカミは足りないひとりを思う




 ※※※




 目の前で、青空を切り取って日に透かしたかのような水色が揺らめく。暖かな陽だまりが似合う頬に笑みが浮かぶ。細められた金の目が、楽しそうにこちらを映している。

 ライゼは彼女が何を着ようが、本当はどうでもよかった。何をまとっていても、アオイはアオイである。目を焼くほどの、あの澄み切った空のような内面の美しさは服に左右されるようなものではない。

 しかしそうは思っても、身分相応に着飾られた女神は輝かんばかりの美しさで。

 アオイが困っていたとき、手を取ったあの瞬間、切り取られた青空の化身が手の中に落ちてきたような仄暗い喜びが首をもたげたことを、ライゼは覚えている。そんな感情が自分の中にあるのかと驚いたことも。


「ぐっ……、っアオ、イ……」


 が、幸せを形にしたかのような光景はライゼの前でぐにゃりと歪んだ。舞う砂埃と悲鳴と怒声。そして驚いた表情のまま崩れ落ち、砂にまみれる水色の髪。

 駆け寄ろうとするも身体は重くて動かず、そうしてもがいているライゼをあざ笑うかのようにアオイの姿が遠のいていく。


「連れて、いくな……」


 気合いで腕を動かす。まだ横になっていたがる身体を叱りつけ、岩で打ち据えたかのような鈍痛を発する腹を無視した。少しでも傍に行くために、床に身体を引きずる。


「そいつを……連れていくな──!」


 吠え、強制的に下がる瞼をこじ開けて、目の前に広がる光景を睨みつけようとした、その瞬間。


「おっ、兄ちゃん! よがっだ、いき、生きてだ──!」

「あ、アルル?!」


 目の前に飛び込んできたのは半泣きのアルルの顔で、ライゼは目を丸くしたまま、飛びつかれた状態でひっくり返った。



「あんたが起きるまで待つって聞かなかったのよ。ったく、さっさと目を覚ましなさいっての」

「……状況は、どうなっている」

「ご覧の有様。パーティーはめちゃくちゃで、元凶はとっくに退場済みよ」


 質問に、シャムランが気だるげに言葉を返す。ライゼの膝の上では泣きつかれたらしいアルルがすやすやと寝息を立てていた。非常用に灯されたろうそくの火が揺らめき、荒れた大広間の壁にふたりの影を作り出す。怪我人用の包帯を山ほど抱えた騎士たちがバタバタと通り過ぎて行った。

 涙の跡が残る丸い頬にかかる髪をそっと払って、シャムランが続けて口を開く。弓を引いていた腕にはきつく包帯が巻かれ、その横顔にはまだ砂の粒がこびりついていた。


「フレイラは最初からこれが目的だったのよ」

「アオイのことか」

「そ。私らがどうしようが、最初からどうでもよかったんだわ」


 目が覚めたときにはもう何もかも終わった後だったとシャムランは語った。皆が倒れ、元凶も、それが狙っていた女神の姿もなく。


「わざわざ捕まえたんだから、恐らくすぐに始末されるようなことは……まあ、ないと思う」

「……ん」

「だから、その顔やめて。アルルが起きたら怖がるでしょ」


 頭の奥で、目の前で起きていたことが繰り返される。ライゼはグッと拳を握り込み、感情のまま床へと叩きつけかけ、寸でのところで手をほどいた。爪が食い込んだ手のひらから微量の血が滲む。

 最後に見たあの白い閃光が、まだ瞼にこびりついている気がした。


「……あの男は、一体何者なんだ」

「カゲロウ。ありゃ正真正銘の化け物だよ」


 言葉を途中で遮りながら、いつの間にか後ろから近付いてきたガネットがどっかりと腰を下ろす。首に巻かれた包帯をうっとおし気に指で掻くその顔は、実に面白くなさそうだった。


「なんせ、ただの転移者のくせにあたしと対等にやり合うんだ」

「……ふん、くたばっていなかったのか」

「生憎、手加減されたのさ。あんたも、このあたしもね」


 手加減された。つまり、あの男にその程度で相手できる存在だと思われたということ。

 ふつふつとライゼの頭に怒りが湧き、けれどすぐさま冷めていく。現にライゼたちはあの男の前に成すすべなく敗北したのだ。

 しかしガネットは怒りが収まらない様子で組んだ足をパタパタと揺すぶりながら、苛立ちを隠さない口調で言葉をこぼした。


「っとに相変わらずよく躾けられた犬だよ、あいつは。どうせあの女神に『なるべく傷つけないように』とでもお願いされたんだろうさ」

「いいじゃない。そのおかげで私たち生きてるんだから」

「よかないよ! 侮られたってことだろう?!」


 ガネットの声がさらに荒ぶり、眉間に深い皺が刻まれる。戦う者にとって侮られることは何よりの侮辱だ。決して口には出さないが、ライゼの心情もガネットと似たようなものだった。

 しかし熱く語るガネットにシャムランはどうでもよさげな視線を送り、「そんなことより」と言葉を強制的に断ち切る。


「なんであいつを攫ったのか、そっちの方が気になるわよ。……ね、ガネット。あんた前に直接やり合ったんでしょ。フレイラの思惑とか、わからないわけ」

「は、わかるわけないだろう。あたしが、あんなお嬢ちゃんの考えそうなことなんぞ」

「……そーね。あんたは理解しないし、理解しようとしないタイプだったわ」


 本当に何もわかっていなさそうな声にげんなりとした声をあげながら、シャムランが深くため息をついて額に手を当てる。が、ひとりの女神が肺の空気をすべて出し終わるより早く、横から聞き覚えのある声がかかった。

 何かを引きずる音ときつい消毒用の酒の匂いと共に、ろうそくの影が大きく揺らぐ。


「そらァ、俺が話す」

「……おや、生きてたのかい。バルタザール」

「なんとかなァ。一時は本気で死んだかと思ったけどよ」


 騎士に肩を貸されながら姿を現したバルタザールは、頭に首、腕、胴から足までを包帯でぐるぐる巻きにされていた。そんな出で立ちであるにもかかわらず、何故か元気があるように見えるのは妙に張りのある声のせいだろうか。

 バルタザールは支えられながら三人の傍に腰を下ろし、そして唐突にがばっと頭を下げた。


「おい、なんの真似だ」

「悪ィ! 俺ァ気づいていたってのに、止められなかった! 結局あいつらの好きにさせちまった!」

「……その口ぶりから察するに、お前、何か見たね。で、その結果がそれなわけかい」


 ボロボロの姿を眺めながらそう声をかけるガネットに頷き、バルタザールは言葉を続ける。


「そうだ。俺ァここに来る途中、連中の企てを聞いちまった。それを止めようと首を突っ込んで、このざまだ」

「フレイラたちは、なんて?」

「……あいつらはアオイ様の力を狙ってる」

「祝福のことか?」

「違う。もうひとつ、エイドリックの野郎を消したやつの方だ」


 帰す力のことだろう、とライゼはすぐさま思い至り相槌を打つ。

 女神の中でもアオイだけが使える転移者を元の世界に帰す力。聞いただけでは夢物語としか思えない奇跡じみたそのわざを、森の中で、シュラ王国で、フルール国で、ライゼは何度も目にしてきた。

 しかしそれを知って、一体何をしようというのだろうか。帰す力は強力だが、転移者を利用する女神からすれば排除こそ考えるだろうが、手に入れようとは思わないのではないか。

 そう思ったのが伝わったのだろう。不甲斐ない己を責めるような声色で、バルタザールはライゼに向かってこう口にした。


「……あいつらはあの力を利用して、アオイ様が消してくれたクソったれを気だ。消せるんなら戻せるだろって、そんな理屈でな」



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