53 覚醒
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――可愛いエリー。私の大切な、宝物……。
母の声がじわ、と滲んで頭の中が紅く染まる。
紅く紅く紅く満ちていく。
――エリー。あなたの能力は特別。あなたたちは月女神の愛し子……だから私たちは――フォレノワールの地に住む民は、あなたたちの一族を愛さずにはいられない。
月影の民の血を引く、フォレノワール家――かつて伯爵家に仕える騎士の娘だった母メルディアは、生まれも育ちもフォレノワール州。月女神の敬虔な信徒だった。
ヴィオラに見初められ、伯爵家の一員となった母は子供たち……特に娘であるエリーシャを深く愛し、敬った。
フォレノワールの血を引く【異能】持ちの子供たちをまるで宝物かそれ以上の熱量で信仰したのだ。
母が子供に対してする以上に、期待をかけ、それが結果――幼き娘を追い詰めた。
『エリー、しばらく父さまと帝都の屋敷で暮らそうか』
そんなふうに誘われて、エリーシャはわけがわからないままこくりと頷いた。母さまはお疲れなんだよ、というヴィオラの言葉に「そおなんだ」と首をかしげた。
『かあさま、えりーいないとげんきになれる?』
『……そうじゃない、エリー。私はエリーに笑っていてほしいだけなんだ、母さまだって同じ気持ちだよ』
メルディアは、エリーシャの上のふたりの兄が既に【異能】を発現させていたことから、エリーシャにも早く、と願う気持ちが強すぎた。
【異能】が発現するのは思春期に入る頃……ラーガとウィルバーがそれより少し早かったというだけで、いつ目覚めるかは個人差がある。
あらわれないことだってあり得るのだが、メルディアは理解しようとしなかった。六歳の娘の力を伸ばそうと必死に尽くして、過剰の愛を注ぎ、じっとその瞬間を見逃すまいと目を光らせていた。
『ごめんなしゃい』
『エリーは何も悪くない。ほら、母さまと兄さまたちに手を振って』
馬車に乗り込んだエリーシャが窓から覗くと、力いっぱい両手を振る兄たちと茫然とした表情のメルディアが見えた。
草原に群れる羊たちの向こうに、フォレノワール伯爵邸が隠れてしまったとき――ほんのすこし、ほっとしたことにエリーシャは気づいていなかった。
『ゆーり、だいじょうぶ? いたい?』
慣れない帝都暮らしだったが、エリーシャにとって初めてのお友達が出来た。
家族以外と話すことは稀で、ほとんど母とばかり会話していたのでエリーシャは年齢のわりに話すのがすこし苦手だった。
そんなたどたどしい言葉遣いをユーリスは揶揄わず、笑わなかった。
ただ優しいまなざしで見つめ、大丈夫、落ち着いて話せばいいよと声をかけてくれた。
そんな彼のことをエリーシャはすぐ大好きになった。
彼が何かに苦しんでいるのならその原因を取り除いてあげたい。エリーシャは厳重にまきつけられた包帯を見るたびに、心臓がぎゅっとなった。息が苦しくて、胸がいっぱいになる。
――もし、この「いたいの」がなくなれば。ゆーりは、よろこんでくれるかな。
『だいじょうぶ、いたいのもう、なくなるよ』
大粒の涙をこぼすユーリスの左目を包帯の上から撫でていたとき、ヴィオラが部屋の中へと駆け込んで来た。
そして、逃げるようにサフィルス宮殿を後にするとヴィオラはエリーシャにこう告げたのだった。
帝都の伯爵邸に到着してすぐエリーシャとふたり書斎に閉じこもると、信を置いている使用人さえも近づかないように厳命した。
ヴィオラは娘と視線を合わせられるように、絨毯の上で跪いた。
『エリー……この能力のことは誰にも言っちゃいけない。母さまにも兄さまにもダメだ』
『どおして……? わたしにもできるようになったよ、っていうと、かあさまきっとよろこぶよ?』
『そう、だろうね……』
娘の無邪気な問いかけに、ヴィオラは困ったように眉を下げた。
『エリーの【異能】は規格外なんだ――それに覚醒の時期が早すぎる。フォレノワール家の歴史書を紐解かないと判別できないが、おそらく【月女神の現身】……月女神の権能をそのまま分け与えられている』
思考を整理するために早口で言いながら、ヴィオラは渋面を作った。メルディアは勘がいいから何かエリーシャの秘めた能力について感じていたのかもしれない。
『ねえ、エリー……さっき、ユーリス殿下に触れたとき何を考えた』
『えっとねぇ、ゆーりがね、もう、やなきもちにならなければいいのにな、って』
時折見せる、友人の切なそうな表情の理由が包帯にあることに遊びに通っているうちにエリーシャは気づいた。その原因がなくなれば、もっとユーリスは笑ってくれるだろうと考えたのだ。
だから――……。
『成程……エリーの【異能】は【
『りらいと?』
『そうだよ。エリーが「こうだったらいいな」と願ったことが現実になる……万能の力だ』
『ばんのうってなあに』
『なんでもできるってことだよ』
すごいすごいとはしゃぐエリーシャの頭をヴィオラは撫でた。
『もしそんなことが明らかになれば、エリーシャを狙って多くの者が押し寄せるだろう。もちろん私たちの力については秘匿しなければならないが――より慎重な対応が必要だ』
いいかい、とヴィオラはエリーシャに言った。
――頭の中に扉をイメージしてごらん。その扉の中に【書換】を入れておこう。そう、鍵をかけて仕舞っちゃうんだ。必要な時が来たときには、扉をあけることにしよう。私は可愛いエリーが、そんな大変なことに巻き込まれないことを願っているけれど。
――いいかい、エリー。【書換】を使うんだよ。「本当に必要なときが来るまで、わたしは【書換】を持っていることを忘れる……それにかかわる記憶も全部、なにもかも」そんなふうに、月女神にお祈りしなさい。
――それまでは【書換】は【同調】……自身の気配を遮断する力として、エリーシャを守ってくれるように。月女神よ、どうか御身の代行者であるこの子をお守りください。
そうして、扉は閉ざされ――時が経った。
十分すぎるほどの時間を経て月女神の愛し子は古びた扉の鍵を開け、自らの【異能】を取り戻した。
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