37 婚約の裏で -1-


 エリーシャへの婚約を申し込むために、ユーリスは初めてフォレノワール州を訪れた。一度も来たことがないはずなのに、懐かしい不思議な土地だ。


 見たことのないはずの風景をどこかで目にしたような気がする。


 そんな既視感をおぼえたのも束の間、気づいたらもこもこの羊に周りを囲まれていた。ユーリスのジャケットをもしゃもしゃ食んだり、めえめえなにか訴えてきたりする。

 このずうずうしい生きものをユーリスは遭遇してすぐ、かなり嫌いになった。



❖❖❖❖



「やあ、ヴィオラ。いえ、フォレノワール伯爵――と言った方がいいかな?」

「お久しぶりです、ユーリス殿下。子供たちの手前、あの場ではあまりお話が出来ずに申し訳ありません」


 顔合わせとして皆で昼食を摂った後、ヴィオラ・フォレノワール伯爵は執務室を訪ねたユーリスを喜んで迎え入れた。

 重厚な黒樫を用いた調度品は磨きこまれたつやがあって、顔が映り込みそうなほどにぴかぴか光っている。


「このたびはうちの娘をご所望とは……まったく、あなたはひどい方ですね。大切に守り育てた私の宝物をどうして奪おうとなさるのです?」

「ああ、ヴィオラの愛娘だけあって、のようだね……そこが気に入ったんだ。それなりに使えそうだから」


 くすくすとヴィオラが笑ったのを見て、ユーリスは片眉を上げた。


「何がおかしいのかな。僕に教えてくれると嬉しいのだけれど」

「それは教えないと容赦しないぞの意味ですね? ふふ、いえ失礼……殿下は遠回しな言い方がお上手になられましたね。昔のあなたはもっと口が悪かったように記憶していますのに」

「ふうん、幼い頃はもう少しまともで純粋だったのかもしれないな。毒に浸した言葉よりも鋭い剣先で刺す方が楽だと手間を惜しんでいたんだよ」


 肩を竦め、ソファにどっかと腰を下ろしたユーリスの仕草に少年の頃の姿が重なって見えたのか、ヴィオラはますます笑みを深くしていた。ただユーリスはその程度で腹を立てるほど狭量ではない。


「殿下と初めてお会いしたのは、あなたが目を開いたばかりの頃でしたね。皇帝陛下が奥方と私の不貞行為をお疑いになったときは肝が冷えましたよ」

「ヴィオラが母上と? それはそれは災難だったね……フォレノワール伯爵の愛妻家ぶりは有名なのに」


 人間離れした美貌を持つフォレノワール伯爵に言い寄る女性は後を絶たないが、亡くなった妻をずっと想っているからと誠実に断り続けていると聞く。いつまでも彼が後添いを迎えないのは社交界の七不思議のひとつにも数えられていた。


 彼の人柄もあり、フォレノワールの一族は社交界でも好意的に受け止められている。銀髪と赤眼という帝国内では珍しい形質を保有してはいるものの、その容姿すらある者は利用し――ある者は、そっと人の中にうずもれ身を縮めて、ひたすら目立たないようにしている。


 ただ利用するためだけに婚約を申し込んだ娘の怯えたように潤んだ紅い瞳ベリーをユーリスは思い出した。おどおどと目を伏せ、膝のうえでぎゅっと何かを守るように手を握る仕草。

 ひたすらに息を殺し、目立たないように生きてきた者ならではの自信のなさが、彼女の立ち居振る舞いにはあらわれている。それがユーリスの眸には苛立たしくもあり、いじらしくも映った。


 ヴィオラのわざとらしいため息が、ユーリスを現実に引き戻す。


「あのとき、陛下も私もそれはもう大慌てでしたねえ。私は妻にも信じてくれ、と泣いて縋りました」

「ふふ、ヴィオラが奥方に泣き縋るところは簡単に想像がつくよ。陛下が慌てるなんて、どうせ君お得意の誇張表現だろうけれどね」


 とはいえ、さぞ見ものだっただろう。

 自分の関わる話だというのに他人ひと事のように思えた。ソファの隅にたたんで置かれていたひざ掛けを手に取り、身体にぐるぐると巻きつける。

 身体を冷やすな、と侍医にしつこく言われ続けたせいで季節にかかわらず暖を取るのが習慣になってしまっていた。


「……触り心地がいいね、これ」


 サフィルス宮殿にある敷布や毛布、衣類でもあまり感じたことのない手触りだ。柔らかく暖かで、優しい。ずっと抱きしめていたいような気分になる。


「ああ、殿下もご覧になったでしょう。フォレノワール州の名産品、ヤンペルト羊の毛織物ですよ」

「羊……というと、あのやたら噛み癖があってめえめえやかましくて凶暴な獣のことかな?」

「殿下が遭遇したのはどこの世界のいきものですか? ヤンペルト羊は月女神ディアナの使徒とも呼ばれる愛らしい家畜ですのに。気性も穏やかで賢くてひとに馴れているんですよ」

「理解できないな……あのもこもこの毛がこんな触り心地がいいなんて」


 ヴィオラの言葉を無視して、包まった毛布を撫でる。ただ羊の第一印象がすこぶる悪かったせいで素直にこの好さを受け入れがたかった。

 細長い瞳孔といい、むやみにぐりぐり額を押し付けてくる行為といい、あれが愛らしくて賢く聖なる生き物だとは到底思えない。

 よろしければ持ち帰りますか、というヴィオラの申し出にも思わず「……少し考えさせてほしい」と躊躇ってしまったほどのトラウマを与えていた。

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