ニゲカガミは人を狂わす

図書館を後にしながら、包装紙にぺったりくっついて取りづらいチェルシーをなんとか口に放り込む。逃げ鏡が発生した場所と、適切にマーキングしておいたことを伝えると職員のおばちゃんがこっそりくれたのだ。


「それにしても、カラースプレーなんて持ち歩いてるのね」


同じくチェルシーに苦戦しながらこぼした知秋の言葉に、亜梨沙はひどく驚いた。


「まさか持ってないの?逃げ鏡のマーキング用ではあるけど、食べられないようにするお守り代わりって意味もあるんだよ。みんな持っているでしょう?」


「えっと、そうなんだ。知らなかったわ。それ流行?」


「何言ってるの。神社でおみくじを引くだとか、受験の時に五角形の鉛筆を持っていくだとか、そういった願掛けの類と一緒。流行とは違うよ」


「あはは。そうよね」

モゴモゴと口を動かす知秋に、亜梨沙は呆れてカラースプレーを差し出した。


「持ってないんでしょ。あげる」


「え?いいわよ。亜梨沙のお守りでしょ?」


「いや、知秋ちゃんが持っておくべきだと思う。知秋ちゃんて、たまにすっごく忘れっぽいし、ぼーっとしてるから心配だわ」


強引に手元に押しやる。硬いアルミ缶は知秋の両手に収まった。


「ありがとう。亜梨沙」

そう言って笑った知秋の顔は、寂しそうだった。


通学バスの予定時刻までまだ時間があった。

それでもカラオケに行ったり、カフェで時間を潰すほどでもない。ゆっくり歩きながらバス停に着くとちょうどいいタイミングだろうと踏んでいたが、二人の歩幅は想像よりもずっと大きかった。予定よりも随分早くバス停についてしまった。


バス停のベンチに腰掛けて、亜梨沙は小さく息を吐く。


「昔、逃げ鏡に食べられた人がいたの」


「逃げ鏡に?」

知秋はおずおずと顔をあげる。亜梨沙は頷いた。


「と言っても、実際に食べられた人と顔見知りだったわけじゃない。友人が逃げ鏡に食べられたって証言したクラスメイトの話になるんだけど」


そう前置きして、あの日の記憶を話し始める。


それは亜梨沙が中学生の時のことだ。

その日は日直で、放課後に花壇の水やりを任されていた。花に水をやるという非日常的な作業が嫌いではなく、鼻歌混じりで水をやっていた時のことだ。グラウンドの方から悲鳴が聞こえてきたのである。


助けなければいけないという正義感と、ほんのちょっとの野次馬根性でジョウロを放り出し声の方に向かうと、同じ学年の女の子がうずくまっていた。気の強そうな女の子が一人、うずくまった彼女の背中を撫でているが、救急車を呼ぶような緊急事態ではないようだ。


同じく悲鳴を聞いて駆けつけた人間が数名、彼女らを囲むように困惑した様子で立ち尽くしている。


話を聞くと、うずくまっている女が言うにはの目の前で逃げ鏡に食べられたとのことらしい。誰が食べられたの?と恐る恐る尋ねてみても、立ち尽くした彼らは頭を振り、こう答えるのだ。


知らない人。


しかし取り乱した女の子は、涙ながらに訴えていた。


どうして?ミナよ。さっきまであたしたち、一緒にいたじゃない。どうして知らない人なんて言えるのよ。ミナが逃げ鏡に食べられたのよ。ねえ、あなたも知ってるでしょ。同じクラスのアンドウミナよ。


最後は亜梨沙に噛み付くように訴えてきた。気の強そうな女が止めてくれたからよかったものの、真っ赤な目を見開いてこちらに向かってくる様は誰が見ても正気ではなかった。


アンドウミナ?そんな子いただろうか。

全校生徒合わせても1000人に満たない小さな学校だ。いくら他人に興味がなくともクラスメイトの名前と顔が一致しない方が難しい。


それにアンドウミナだとすれば、出席番号は前の方になるだろうから目立ちやすい。

いささか心苦しい思いをしながら、亜梨沙は頭を横に振る。


知らない。


その時の彼女の絶望した表情は、今でも脳裏にこびりついている。


知秋はその話を黙って聞いていた。青白い顔で、アスファルトを見つめている。亜梨沙は続けた。


「逃げ鏡に触れてはいけない、通り過ぎてはいけない。向こうの世界へ連れていかれてしまうから。生まれてからずっと口を酸っぱくして言われてきた。ほとんど迷信だよ。


だって私たちは一度も、逃げ鏡に食べられたって事件のニュースを聞いたことがない。これだけの情報社会で、どんな小さな事故だって映像に残る時代によ。それなのに一度だって逃げ鏡に食べられた人を見たことはないの。それでも尚、逃げ鏡が危険なものだと認識しているのはなぜだと思う?」


知秋は黙ったままだ。亜梨沙は足元に転がっていた石ころを蹴飛ばした。


「私は、逃げ鏡が人を食べるっていうのが間違っているんだと思う。おそらくだけど逃げ鏡に触れた人間の方が狂うのよ。あの時のクラスメイトみたいに」


バス停の前の道路は国道で、車通りが多く二人の間に流れた沈黙を程よくかき消してくれた。知秋はまだ黙ったまま、カラースプレーを弄んでいた。


亜梨沙は辛抱強く彼女の言葉を待った。

知秋は、何かを隠している。本人が言うつもりがないのなら聞かなくてもいいと思っていたけれど。逃げ鏡のことを忘れるなんて。


健忘症?

そんな言葉が頭をよぎる。いやいや、決めつけるわけにはいかない。


知秋がようやく口を開いたのは、乗る予定のバスの姿が向こう側に見えた時だった。


「その子は今どこにいるの?」


「どの子?」


「友達が逃げ鏡に食べられたって、泣いてた女の子」


亜梨沙は目を伏せた。深くため息をつく。


「死んだよ。自宅のマンションから飛び降りたの」

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