集団パニックと狂った女

「手が早えんだよこの野郎」


頭の上にガツンという衝撃を受け、僕は引き離されるように後ろへ引っ張られた。どうやらペットボトルのジュースで殴られたらしい。痛みのある箇所に手を当てると、水滴がべっとりついていた。それと同時に呆れ顔のシモダが見下ろしている。


絵梨奈を見ると、顔はもちろん、目までウサギのように真っ赤になっているではないか。今にも泣き出しそうだ。そうか、これでもちょっと刺激が強かったか、と反省すると同時に目眩を起こしそうになる。処女をベッドに誘えるようになるまで、どれくらいの時間が必要なのだろう。


なんとかシモダが宥め、落ち着きを取り戻した絵梨奈は、“本題“らしき集団パニック事件のことについてポツポツと話しはじめた。僕は興味がなかったので、真剣に聞いているシモダの後ろで、ぼーっと子供達を目で追っていた。動くものがそれしかなかったのだ。


「昨日の話よね。ええ。いいわ。私が知っていることであれば教えてあげる。


特に予兆はなかったわね。いつも通り準備運動を終えて、いつも通りに練習していたわ。

あ、私は硬式テニスの方だから、集団パニックが起こったソフトテニス部とは別コートなのよ。だからあんまり詳しくは知らないんだけど。


一人の女の子が突然叫び出したのよ。

こう言っちゃあなんだけど、高校生の女子が叫び出すことなんて日常茶飯事じゃない。友達に会ったとか、虫が飛んできたとか、片思いの相手からメッセージが来たとか。そんな理由で大声をあげちゃうでしょ。だから私、てっきりそんなことだろうと思って見向きもしなかったのよ。でもね、なんだか様子がおかしいの。


その悲鳴が、まるで合唱のように周りの女の子に連鎖していったのよ。段々と只事じゃない雰囲気になってきて、ようやく私は向こう側のコートに目を向けたわ。不審者が入ってきたとか、ボヤ騒ぎが起こったとか、そういう大変な事態になっているんじゃないかって思ったのね。


でも違った。彼女たちは、ただひたすらその場に棒立ちになって、ただひたすらに泣き叫んでいたの。


映画を観た後に涙を流すとか、そんな程度じゃないわ。まるで赤ん坊が母親を求めているみたいに、声を張り上げて泣いていた。


そうね。あれは絶望の泣き声よ。

絵に描いた絶望だったわ。


そのうちの一人が何か意味のある言葉を言ってたけど、私が聞き取れたのは「お願い、私を選んで」だけね。ごめんなさい。何せ私たちもパニック状態で。


それからは報道通りよ。救急車が到着した時には彼女たちは落ち着いていて、どうして自分があんなに取り乱したのか覚えていないんだって。


健康状態も悪くなかったわ。ただ、一番最初に叫び出した子だけは重症みたいで(彼女はそこで口をつむぎ、居住まいを正した)、ちょっと、いつも通りじゃないっていうか。おかしくなっちゃったみたい」


「狂ったのか?」

オブラートに包まないシモダの表現に苦笑しながら、絵梨奈は頷いた。


「言ってしまえばそうね。前からちょっと変わった子ではいたけど、なおさら変なことを口走るようになったみたい」


「その子には、会える?」

シモダの申し出に、絵梨奈は頷いた。


「家で療養してるはずよ。私と一緒に行けば、通してもらえるかもしれない」

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