fall for fall
空殻
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「いや本当に、秋の夜空の月は美しい」
そんな感想を抱きながら、私は夜空から落ちていく。視界には逆さまの
事の起こりは単純で、私は夜の散歩として空を飛んでいただけだった。少し高度を上げると、遮る物が無い夜空から眺める月に圧倒された。そして思わず、飛行のために魔力を回していたのを一瞬だけ忘れてしまったのだ。
飛ぶ機能を消失した私の体はその瞬間に重力に引かれて落下を始めた。
落下し始めたと言っても実に些細なことだ。人間であれば歩いていてバランスを崩したようなものだろう。そのまま尻餅をつく人間がそうはいないように、私もすぐに魔力を使えばまた飛び直すことはできた。
しかし気まぐれにも、どうせならこのまま落下してみるのも悪くないと思ったのだ。頭を大地に向けるようにして、私はそのまま自由落下に身を任せた。
秋の冷たい夜気が私の周りを流れて昇っていく。いや実際には私が落ちているのだから、空気はその高さにあり続けるのだろう。ともかく体にあたる風が涼しかった。
相変わらず黄金の満月がよく見える。少し空から落ちた程度では距離が変わるはずもなく、ずっとその存在を主張し続けていた。
それにしても、バタバタと少しうるさい。私が身に纏うマントがはためいている音だった。いっそ脱いでしまおうとも思ったが、このマントが空気抵抗を増して私の落下をいくらか緩めているようでもあった。どうせなら、この落下しながらの月見を少しでも長く楽しみたい。
それでも少しずつ地上が迫って来ていた。逆さまの私にとっての頭上には、月明かりにぼんやりと照らされた、一面の赤い世界が見える。朱、または紅というべきか。それは月と並ぶ秋の風物詩、紅葉だった。紅に染まった木々が立ち並ぶ森林が、少しずつ近づいてきている。
夜闇の中で見える紅葉の色は妖しく見え、私は馴染み深い血の色を連想した。
もうあと十秒ほどで地面に到達する。そう思った私は少しだけ魔力を使い、制動過程に入る。重力を無視したブレーキがかかり、私の体の落下速度は急速に減衰する。頭から着地するわけにもいかないので、ここでくるりと宙返り。視界の中で世界が反転した。月は天上に、紅葉は眼下に。
降り立つのにちょうどいい場所を見繕うために森林を見回す。少しだけ向こうに開けた場所がある。私はそこへ目掛けて降りていく。
その時、見下ろしている森林の中に動く影を見た。すぐにそちらに視線を向けると、そこに見えたのは一人の青年だった。どうやらこちらを見上げている。
こんな時間になぜここに、と思いながらも、私は自分の口角が上がってしまうのを自覚していた。空から落ちてくる姿を見られたのだ、口封じを兼ねて捕まえて、そして生き血を啜ろう。食欲の秋という言葉もある。月見と紅葉狩りをしながらの食事はきっと極上だろう。
***
こんな夜更けにわざわざ紅葉を見に来るなんて、自分でも馬鹿なことをしていると思った。
思い立ったのは今夜だった。
一週間働き続けてくたくたになった状態で、電車に乗って帰路についた。特に目的もなくスマホでニュース記事を見ていると、たまたま紅葉の写真が目に留まった。人で賑わう観光地、真っ赤な木々を大勢の人が見上げていた。
ふと、今年は秋らしいことを何かしただろうかと思った。紅葉真っ盛りということは、葉が落ちれば冬がやって来る。そうすれば次の秋は一年後。そうしてまた一つ、年を重ねてしまっている。
そう思うといてもたってもいられなかった。家に帰ってすぐに着替え、しばらく乗っていなかったバイクに跨った。郊外の森林が、たしか紅葉の名所だったはずだ。その記憶を頼りにバイクを走らせる。
そして辿り着いた目的地は、紅色の木々が立ち並んだ、別世界のようだった。今夜は満月で、月明かりでもよく見える。バイクで走りながら見るだけで充分だと思っていたが、目の前の光景に心奪われ、もう少しゆっくり眺めたいと言う誘惑に駆られた。
邪魔にならなそうな路肩にバイクを止め、森林へと入っていく。葉が頭上を覆うので少し暗くなるが、見上げれば月が見える。葉が月光に透けて、紅色がより一層鮮やかだった。
こんな夜更けに紅葉狩りをすることを自分でも愚かだと思いながら、どれほど歩いていただろうか。
木々の合間を縫って射してきていた月光を、一瞬だけ影が遮った。ぼんやりと鳥か何かだと思いながら頭上に視線を向けた僕は、自分の目を疑うような光景を見た。
空から、一人の女性が落ちてくる。いや、落ちると言うにはあまりにゆったりとした速度。降りてくるという表現が適切だろうか。彼女は黒いマントのようなものを羽織っている。しかしそれ以外の髪も肌も、やけに色素の薄い、白か銀と呼ぶべき色をしていた。それらが月光を受けて輝いている。
特に大した考えもなく、魅入られたように僕は、彼女が降りてくる方向へ向かって歩き出した。
ふと、彼女もこちらを見たような気がした。
彼女が地上に降り立ったのと、僕がその地点に辿り着くのとは、ほぼ同時だった。間近で見ても、彼女の髪や肌は白銀に見えた。
僕を見て、彼女はなぜか笑った。そして、その唇が言葉を紡ぐ。
「おいニンゲン、私が何に見える?」
僕は思う。人でないのは明らかなのだろう、と。
ただ、何も答えることはできなかった。
「今、何を考えている?」
また彼女が問いかけてくる。
これに対しても僕は、何かを答えようとしたわけではない。
気付けば、ただ思った言葉が口を衝いていた。
***
「おいニンゲン、私が何に見える?」
目の前の青年にそう問いかけながら、私は笑っていた。
これから彼の血を啜る。その前に彼がどんな反応を見せるか、見てやろうと思った。混乱、あるいは恐怖がいい。そんな風に期待しながら。
我ながら人外らしい嗜虐心だとは思う。しかし文字通りの人でなしなのだから仕方がない。
彼は何も答えなかった。やはり混乱しているのだろうか。当然だ、空から落ちてくる存在は当然人間の常識外だろう。
「今、何を考えている?」
重ねて問いかけたが、彼の答えは期待していなかった。混乱して言葉を失っているのなら、何も答えられないだろう。
数秒の間を置いて、距離を詰め、その喉元に牙を突き立てる。きっとそれで教学と恐怖が見られる。
浮足立つ気持ちを抑えながら数秒。
しかし彼は答えた。
「とても、綺麗だと思う」
瞬間、私の思考は空白になる。
この状況下で、なぜ目の前の人間は、こんなことを言うのだろう。彼を捕食しようとしていたことも忘れ、彼女は彼について思考を巡らせる。
混乱のあまり、脈絡の無いことを言ったのだろうか。あるいは、この満月を、この紅葉を、そう表現したのだろうか。
そうして自分を納得させようとして、しかし間違いなく彼の視線はこちらに向けられていることに気付いた。それが答えなのだろう。
秋の夜風は冷たいのに、なぜか顔が熱くなるのを感じた。
***
こうして、人でなしと人は恋に落ちた。
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