楽園のファミリア 〜運命を変える女神の継承者〜
夏
第1話 はじまりの夜
『――俺のすべてを犠牲にしても、君を守るよ。触れさせやしない、ほかの誰にも』
誰かの悲しむ声がする。
誰かのささめく声がする。
誰かの乞い願う声がする。
けれどあの頃の私には、なにもわからなかった。
知り得なかった世界の真実も、誰かの決意も。
***
北大陸の南方に位置するディモン王国の末端、ザルハン領。
今宵、王家の傍系血族にあたるザルハン領主が開いた舞踏会に大勢の招待客が参加していた。
楽団が奏でる音色に合わせて皆が踊り、酒と華々しい雰囲気に酔いしれていたときのこと。
「この子がまたわたくしの指輪を盗ろうとしたのよ! なんて図々しいの! 呼んでもいないのに会場にまで来るなんてっ」
会場に設けられた未成年の少女たちの談笑スペースにて声高い叫びをあげるのは、ザルハン領主の一人娘であるエティナだ。
くるりと巻かれた黒髪に、フリルとレースがふんだんにあしらわれたドレスを着用するエティナは、傲慢な性格がそのまま滲み出たような顔をしている。
「これはわたくしのだと何度言ったらわかるのよ。本当に、私生児はやることも下賎なのね」
エティナは鼻で笑うと、身につけていた首飾りに触れる。
金色の素材でできたペンダントの先端には、透明な色の宝石が嵌め込まれた指輪が揺れていた。
エティナはそれを手のひらに載せると、見せびらかすように転がした。
(――この、性悪)
そんなエティナが睨みを効かせる視線の先には、みすぼらしい姿の少女があった。
服はつぎはぎだらけの木綿のワンピース、適当に切られたざんばらな黒髪の癖毛は煤だらけ、袖と裾から覗く手足は小枝のように細い。
「まあ、まるでボロ雑巾じゃない」
「なんて場違いな……」
伸びきった前髪で顔の半分が隠れており、周囲は小汚い少女の姿に眉をひそめた。
周りが放つ空気が場違いだと罵り、十歳の少女には立っているのも耐え難い場所に違いない。
けれど、少女の瞳には燃え盛る闘気が宿っている。
少女はエティナに狙いを定め、今にも仕留める勢いでペンダントを見定めた。
(そのムダにくるくるした髪を引っ張ってやろうかしら。でも、そんなことしている場合じゃないわ。いまはお母さまの指輪を返してもらわなきゃ)
「――、――」
「なに? なんて言っているのか聞こえないわよ」
少女が口を開けば、出てくるのはかすれた音ばかり。言葉が紡がれることはなかった。
(エティナが私の声を奪ったんでしょ)
数日前、少女はエティナが所持する特異物によって声を奪われていた。
地上では手にすることを禁じられている特異物が、このわがまま娘の手に渡ったことで少女はとんだ災難に見舞われている。
いっそ頬をひっぱたいてやりたい思いに駆られるが、少女はぐっと堪えた。
(お母さまの指輪さえ戻ってくれば、すぐにこの城を出てやる)
少女がエティナに掴みかかろうとした瞬間――会場全体に、突風が吹き荒れた。
いたるところで悲鳴があがる。
遠くから聞こえていた合奏は糸が途切れるようにぷつんとなくなり、絢爛豪華な入口扉から乱入者が現れた。
一人、二人……おおよそ十人程度が会場に流れ込んでくる。
誰も彼も目を引く黒衣を纏っており、その先頭に立つ男の姿に周囲は驚愕に表情を染め上げた。
(こんなときに、誰……?)
まばたいた瞬間――七色眼が、少女の姿を映したような気がした。
「……」
気のせいではなく、あきらかにこちらを見ていた。
集団の先頭に立つ男は、光の粒を詰め込んだような、美しく煌めく白金の髪をしていた。
底知れぬ恐怖さえ感じる美貌に人々は息を呑み、誰もが身を竦ませたとき。
少女の頭には、今は亡き母の言葉が蘇った。
『――この空を見ていると、どうしてなのかしら、胸が苦しくて仕方がなくなる。きっと私は大切な記憶を忘れてしまったのだわ』
虹のカーテンが夜空を彩ったあの日、母は泣いていた。
娘には見せまいと空を見上げた横顔に、一筋の涙を伝わせて。忘却の記憶に思いを馳せるそんな母の姿を、少女は鮮明に思い出せる。
「あの目の色は、まさか……デアテゾーラの、天空領主なのか!?」
舞踏会の招待客が、その男を差して言う。
デアテゾーラ――人呼んで、楽園。
はるか昔、七つの祝福を授ける女神によって創造された天空の大地は、全体の統治者である領主と、守護者と呼ばれる者たちによって成り立っていた。
その楽園は、異能力者という人知を超えた力を持つ人々が集い生きている。
中でも強大な力を保持しているのが、天空領主と、かの者から力を分け与えられた眷属である守護者なのだという。
そして世界は、この天空の楽園と、四大陸と島々から成る地上との二つに分けられている。
天空と地上を行き来する手段は存在するものの、地上人が易々と赴けるわけではない。いつだって片方の――天空人の出方によって成り立つ不確かな関係にすぎなかった。
「天空領主……」
「……あの男が本当に」
「間違いない。瞳の七色眼と、女神の紋章は――」
女神は天空に七つの祝福を授け、その証として領主の瞳は神秘の色を宿すとされている。
それを七色眼といい、天空領主と、その後継者になるにふさわしい者だけが持つ色とされていた。
成人男性であり、七色眼を持った人物はこの世界におそらく一人しかいないだろう。
ゆえに段々と野次馬の声が大きくなる。
しかし、その男は気にもとめず少女とエティナの元へやって来た。
「な、ななな……あなたっ」
エティナは魚のように口をぱくぱくとさせながら、自分の背丈よりもうんと高いその男を見上げる。
男が纏う雰囲気に圧倒されたのか、はたまたザルハン領ではお目にかかれない瞳と毛色をしているからなのか、エティナは男に魅入っていた。
単純に、思わずため息が出るほどに整った顔立ちをしているからという理由もあるだろうけれど。
(いまなら、取り返せる)
そんなことを少女は考える。
誰もが突然現れた男に意識を集中させる場面でも、少女にとって一番大切なのは一つだけ。
エティナが持っている――母親の形見の指輪だけである。
「その指輪は、お前のか」
男は、エティナを見下ろして問う。
正確には、エティナが手のひらで転がしていた指輪に視線を固定させ尋ねていた。
「そ、そうよ。これは、わたくしのよ! お父様から譲り受けた、わたくしの指輪なんだからっ」
見たことのない美貌の男が、自分の所持している指輪に興味を持っていることに優越感でももったのか、エティナは得意げに言った。
「……っ!」
違う、と否定したくて開けた少女の口からは、一声も出てこない。訴える方法を変えた少女は、エティナの両肩に掴みかかった。
「ちょっと、なにするのよっ!? まだこの指輪を狙っているのね! いい加減に諦めなさいよっ」
エティナは少女の手を払おうと腕を振り上げる。
揉み合った拍子に、少女の頬にエティナの肘が思い切り当たってしまう。
普段からろくな食事をしていなかった少女には、突然の衝撃に耐えるだけの力がなく、そのまま倒れ込んでしまった。
(痛っ)
どうやら腰を打ったらしい。
じんわりと広がる鈍痛に顔を顰めた少女が見上げると、同じように眉間に皺を寄せた男と目が合う。
普段は前髪で隠した顔。
これはエティナと、彼女の母である夫人から言いつけられていたことだった。
夫人は「お前の顔は、あの女と同じように男を誑かしかねない」と言って素顔を晒さないように命じた。
ゆえに少女は、こうして生活に支障をきたしそうな髪型をせざるを得なかったのである。
そして城を出たらまず、この邪魔な前髪を切ろうと、少女は密かに決めていた。
「……!」
男は、前髪の隙間から見えた少女の顔に動揺を示した様子だった。
「お前、は」
そのまま床に伏した少女の前に片膝をつくと、一分一秒も惜しいと言いたげな動きで腕をこちらに伸ばしてくる。
思わぬ接近に少女は身をすくめ目を瞑った。
はらりと、前髪が男の手によって持ち上がる感覚がして、空気に触れた額がやけに冷たく感じた。
「――オフィーリア」
男は、消え入りそうな声で呟いた。
その名を聞いて即座に少女は瞳を開ける。
(この人、どうしてお母さまの名前を?)
もしかして、母を知る人物なのだろうか。
それまでは指輪の奪取が最優先であったため、乱入者である男にさして興味もなかった少女は、改めて目の前の人物を確かめた。
「お前は、なんだ」
七色の神秘な輝きを宿す瞳が、弱々しく揺れたような気がして。なんだ、という言葉に、少女は口を開いて声が出せないこの状況を恨んだ。
少女の名は、イリゼ。
この男の言うオフィーリアのたった一人の娘であり、このザルハン領主城では、妾の子と罵られていた。
十歳にしては驚くほど小さな、小さな少女である。
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