いじめをかんがえてみた
いじめ
さて、とあるところで、いじめは人間の本性の表象であるので、規制されるものではなく、むしろ、社会にあって当然のこととして、それありきの社会を考えるべきであるというような主張を見かけた。
僕は、反対である。
人の思想の自由を、暴力で否定することは、人の発展の可能性を摘むものだと考える。ある思想に対して、発展の余地があることを見つけるためには、人の持つ多様な考えと多彩な視点が必要だと考える。従って、いじめに対しては、根絶することは難しいとは思うが、注意深く、人の尊厳を傷つけることのないように、防止することが必要だと思っている。
僕は、いじめという言葉から、群衆や大衆といったものを連想する。
簡単な抜き出しになるが、ひとつは、あるイメージがあって、そのイメージこそ正しいものだと盲信していることだ。もうひとつは、同じでないものを排除しようとする同調圧力を持つことだ。
いじめには、数の大小あるけれど、善悪二元論に支配された全体主義のような思想があるように思える。いじめは、善悪の立場に似た対立を生む。ひとつの思想が正しいものとして、他の思想を排斥するところに、全体主義の統治プロセスに似たものを感じる。
社会の慣行は、正しいとは限らない。ひとつの形態を成しているだけであって、最善であることの証明はできない。歴史を振り返れば、比較の対象はあるけれど、全ての可能性に対しての優越性を証明することは出来ない。
差別 ファシズム アペルトハイト とかの話をしたいのだが、とりあえず今はやめておこう。思想の対立と、弾圧の具体例について話たいわけではないし、それについて詳しくないからだ。
現代で言えば、いじめは、まず、人権侵害である。
身体的苦痛、精神的苦痛を、他人に与えることは、現代の法治においては、暴力とされている。従って、規制されるべき行為だと考える。
これを、否定するなら、基本的人権の考え方から変えていかねばならない。
それについて、ひとつ思うのは、カントの純粋理性批判について、知ってもらいたいということだ。道徳とはどういうものかを考えることが、いじめを考えるにあたって必要なことのひとつであるように思う。カントの名前を出したのは、人間の利己的な性質というものを認めた上で、理性的な判断が可能であるといった考えがあるからだ。人は、理性によって全ての行動を決定できるわけではないが、理性によって他人を尊重することを理解できる性質を持っている。
カントのみならず、共同体での、協調を行うにあたって、道徳や規制または秩序というものが、人間には重要なものだと考えた思想家はたくさんいる。それらを踏まえた上で、いじめという他人の人格の否定を容認するかどうかを、考えたいものだ。
人間は利己的だ。しかし、他人の感情に考えを向けて、他人が喜ぶことを行う力を持っている。つまり、人間は人を幸せにすることができる。共に幸せになるために生きることができる。そう信じてもいいじゃないか、と思っている。そういう僕からすると、いじめはなるべく避けたほうがいい。
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