3-3
*****
だがその後も『眼鏡閣下』の過重労働ぶりは変わらなかった。
食事の時間すら惜しいのか、今日の昼はついに
聞けば執事長たちが手を貸そうとしても「他人は信用なりません」と突っぱね、たった一人ですべての仕事を
(まさか……ここまで仕事人間だったなんて……)
あの若さで
領地やそこに住む人々を大切に思う気持ちも分かる。
でも――
(……それを支え合うために、結婚ってするんじゃないの?)
アルマの知る
領地のことは父が
貴族たちの多くはそうした役割分担をして、家を切り盛りしているはずだ。
(『
アルマはしばし
するとそこで、
「えっと……みんな、そこで何をしているの?」
「あっ、アルマ様! 実はその、
「なんですって?」
まさかの報告に、アルマは慌てて扉に
耳を張りつけて中の様子を
「
「それがその、少し前に『仕事に集中したいから』と旦那様ご自身で別の鍵をつけてしまわれて……。中からしか開けることが出来ないのです」
(なーにやってんのあいつは……)
執事長と話している間にも、使用人たちの視線が自然とアルマに集中する。
それに気づいたアルマは、ひくっと
(もしかして……私になんとかしろと?)
たしかに彼らがコンラートの
その点アルマであれば、まだ『婚約者』としての立場がある――が。
(あの『眼鏡閣下』のことだから、そんなの関係なく追い出されそう……。そもそも私が何か言ったところで、どれだけ効果があるのやら……)
だが何も反応がないとなれば、これはいよいよ非常事態だ。
アルマは「はあ」と大きく息を
(……これはもう、
どうせ何をしても
吹っ切れたアルマは、すぐさま気の強い『女主人』に
「悪いけど
「て、手斧ですか?」
若い
アルマは「ありがとう」と受け取ると、両手でその
(人命が、最優先よ!)
心の中でそう
やがて木製の
「コンラート様、失礼いたします! お加減は――」
そこで目にしたのは、
一気に全身の血の気が引き、アルマは慌てて駆け寄る。
彼の口元に手を当てると、呼気がわずかに手のひらにかかった。
(――大丈夫、息はしてる。でも意識がないし顔が真っ青、それに全身が燃えるように熱い……)
「すぐにお医者様を呼んでちょうだい! 男の人はベッドに運ぶのを手伝って。他の人は
「は、はいっ!!」
命令に従い、使用人たちが
コンラートが続き部屋にあるベッドに運ばれていくのを見守っていたアルマは、彼が直前まで仕事をしていたであろう机の上に目を向けた。
(すごい量……。まさかこれを一人でやってたの?)
領地や領民からの報告。
かと思えば簡単な礼状の作成や、本来執事長に任せるような使用人の
ようやく少し落ち着いた
「
「こちらこそ。……ずっとあなたたちに任せてばかりで、ごめんなさいね」
「アルマ様……!」
いつの間にか、使用人たちの
彼らをそれぞれの持ち場に返したあと、コンラートが
(ほ、ほんとに良かったー!)
不安そうな使用人たちを前に、『女主人』である自分がおろおろしてはいられない――と必死に擬態し続けていたが、
実際、旦那が仕事ばかりして
あらためて胸を
そこでサイドテーブルに置かれた一冊の本を見つけた。
(これ……恋愛小説?)
とにかく甘い
だがそれゆえ男性からは敬遠されがちで、コンラートが読んでいる姿はとても想像がつかない。
(好きなのかしら? ちょっと意外……)
小さく
やがて意識が戻ったのか、彼がゆっくりと目を開けた。
「……?」
「あ、目が覚めました?」
手を握られていることに気づくと、不快そうに
「……これはどういう状態ですか?」
「仕事中、倒れてらしたんですよ。だから扉
「扉……」
それを聞いたコンラートは、
「無茶苦茶だ……。
「まあ、私嫌われているみたいだから、何しても今さらかなって」
「…………」
目を覚ました姿を見てほっとしたせいか。
はたまたお互いを
アルマはここに来るまでに考えていたことを、はっきりと口にした。
「あの、もう少し私に
「は?」
「この土地と、お父様から受け継いだ家を守ろうとする気持ちはよく分かります。でも何もかも一人で
それを聞いたコンラートは「ふっ」と鼻で笑った。
「
「でも現にこうして倒れたわけですし……」
「ちょっと油断しただけです。大体あなたに何が出来るんです? どうせわたしに万一のことがあれば婚約者としての立場が
「違います、私は本当に」
「心配しなくても、ころころ婚約者を
コンラートはうんざりした様子でベッドから下りようとする。
それを見たアルマは片手を大きく開くと、彼の額をがっと
当然コンラートは
「なっ!? あなた、何を――」
「あーもーあったまきた!! さっきから人の話全っ然聞かないし! えーそうですよ! たしかに私はあなたと対立するのが
「っ……!」
頭を手でがっちりと固定され、コンラートは
しかしアルマの腹の虫は収まらない。
「地面に巣を作るアリ、分かります?」
「……アリ?」
「彼らは
「虫なんかと
「ぶっ倒れておいて、何が『ちゃんと』ですか」
「ぐっ……」
「家長のあなたが倒れたら、この家は一気に
「あなたに?」
「会食の手配、お礼状の代筆、冬季の
「…………」
そう言うとアルマは、ようやく彼の額から手を
コンラートはしばらく頭上の
「……ヘンリー叔父上から、言われていたんです」
「……?」
「あなたは他人だ。いつ婚約を
それを聞いたアルマは、彼が憤っている理由がようやく分かった気がした。
(この人……『真面目』すぎるのね)
誰にも頼れない。
誰にも
でも父親から受け継いだ、大切な領民と領地をなんとしてでも守りたい。その
「だからあなたが……こんなに
「怒ったんじゃありません。
「同じ意味では?」
「違います。私はあなたに、もっと自分を大切にしてほしかったんですよ」
「…………」
アルマの言葉に、コンラートはしばし唇を引き結ぶ。
だが目元を覆っていた手をどかすと、呆れたように
「そうか……わたしは、𠮟られていたんですね……」
「な、なに笑ってるんですか」
「いえ。……言葉が変わるだけで、こうも気持ちが違うものかと」
(……?)
いきなりくだけた
やがて思うところがあったのか、コンラートが口を開いた。
「今回、自己管理が甘かったことは認めます」
「はい。……それから?」
「今後はあなたにも、仕事を手伝っていただくようにします。もちろん、執事長や使用人たちにも」
満足げに
再度眼鏡をかけながら、彼はふとアルマに尋ねた。
「ところで、なんで『アリ』だったんですか?」
「え?」
「わたしを𠮟るのに、どうしてわざわざアリを例えに出したのかと」
「え、えーと、それは……」
だめだ。
普段から昆虫のことばかり考えているせいで、うっかり
なんとかごまかそうと、アルマはとっさにサイドテーブルにあった本の話を持ち出す。
「き、昨日読んだ本に、たまたまそんな話が
「はい?」
「だってそこに――」
だが指さすよりも早くコンラートが、がばっとベッドから飛び起きた。
びっくりするアルマの
「いいからもう出ていってください」
「え!? でもまだお医者様が」
「わたし一人で応対出来ます。だからとっとと帰ってください」
(さ、さっきまでの
コンラートはアルマを扉の向こうに押し出すと、「そういえば」と眼鏡のブリッジを上げながら言い加えた。
「あなたさっき、わたしに『嫌われている』と言っていましたが……別にわたしは、あなたのことが嫌いなわけではありませんから」
「え? でも、前に私のことなんて『全然好きじゃない』って」
「『好きじゃない』と言っただけです。……嫌いとは、言っていません」
では、とコンラートはばたんと間仕切り扉を閉めた。
一人追い出されたアルマは、何度も
(好きじゃないけど、嫌いでもない……どういうこと?)
アルマは首を
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