婚約破棄されるはずの悪役令嬢は王子の溺愛から逃げられない

辻田煙

プロローグ「悲劇のマリオネット」

第1話「待望の時間」

 電車の外には都会の街並みが映っている。時折そんな街並みがビルに邪魔され、代わりに疲れ切った女性の姿が電車の窓に映った。


 一見小綺麗にしている見た目――パンツスーツ姿の黒髪の女性。


 すぐにまた夜景に景色が戻る。


 アナウンスが流れ、女性は自宅の最寄り駅がもう近いことに気付く。


 女性――灯里あかりはそこでようやく気持ちが軽くなった。家には待ちに待っていたゲームがある。会社を忘れ去り、これから家と休日という名の桃源郷に向かうのだ。


 灯里が電車を降り、駅を出て、暗い夜道を歩くこと数分――ようやく自宅のマンションに到着した。


 逸る気持ちを抑え、一歩ずつ家に帰る。走る気力も体力も今の灯里にはない。ふと、昼間の上司の小言を頭の中に再現してしまう。灯里は想像の中でさえ小煩い上司を頭の中でボコボコに蹴り去った。


 こんな時まで邪魔されたくない。せっかく明日は休みなのだ。こんなつまらないことで気分を害すわけにはいかない。


 ポーン、とエレベーターの音が鳴り、乗り込んでしばらく。灯里が住んでいる階に到着し、少し歩いて自宅玄関が見えた。


 ……着いた。着いたーっ!


 灯里は内心で歓喜の声を上げ、小さな灯里が頭の中で小躍りしていた。


 ここから先は天国だ。


 灯里が玄関を開けると、真っ暗な廊下が出迎える。鍵を閉め、側にある明かりのスイッチを点けた。


 履いていたパンプスを足だけで脱ぎ散らしながら、灯里は習慣になっている「ただいまー」を誰もいない空間に投げ入れた。しかし、悲しいかな「おかえりー」とは返ってこない。代わりに聞こえたのは、近くを走っている電車の音だった。


 短い廊下を歩きながら、灯里は思う。


 思い浮かぶのは結婚して幸せそうな表情を浮かべていた友人の姿だ。結婚して数年、愚痴という名の惚気を時節繰り出してくる彼女。灯里はそれをボクシングのパンチの様に華麗にスルーしていたのだが、いつまで経っても仲が良さそうなのはシンプルに凄い。きっと二人にしか分からない苦労があるのだろうが、幸せそうなのは変わらない。


 子供もいるから、旦那さんが先に帰宅していれば一緒に出迎えてくれるのかもしれない。


 いつか誰かの声が返ってくる日は果たしてやってくるのか。


 今の灯里にはその想像が出来なかった。代わりに浮かんだのは仕事で忙しなく動いている自分の姿だけ。


 リビングの電気を点け、近くの椅子にトートバッグを放り出す。


 そこからはいつものルーティンだった。化粧を落とし、服を洗濯機に突っ込んで回し、お風呂に入り、下着姿のままスキンケアをする。そしてYouTubeを見ながら、帰りの道中で購入したコンビニ弁当で夕食を済ませる。今日はパスタに申し訳程度にサラダも付けた。


 お風呂が少しばかり長すぎたか。


 さすがに湯冷めするので、下着姿からお気に入りの大きめのシャツを一枚着る。花梨はこのシャツのゆるゆるさがたまらなく好きだった。


「ふうー……」


 灯里は歯磨きも済ませてベッドに寝転がった。この瞬間は脳が蕩けそうな解放感がある。昼間の仕事のこととか、人間関係とか、クソ上司とか、すべて砂になって消えるのだ。ちょっとばかり上司の顔が残りかけ、ぶん殴って砂にしてしまう。


 そういえば、この解放感を友人に力説したことがあった。友人は軽く引きながら、「灯里、早く恋人を作りなさい」と本気のトーンで言われてしまった。まったく余計なお世話である。大体作れるのなら、とっくに出来ている。別に恋だけがすべてというわけではないし、仕事帰りのリラックスくらいは許してほしい。まあ、十分は語り過ぎだったかもしれない。


「ふあ……」


 体が弛緩したのか、欠伸が漏れ出る。


 近くで充電しっ放しのスマホの時間を確認すると、すでに峠は越していて、深夜の零時を十分ほど過ぎていた。


 明日が仕事であればすぐに寝ているが今日は違う。今日は有休の前日であり、最近楽しみにしていたゲームがやっと今日配信されたのだ。


 うつ伏せになりながら灯里は足をバタバタと動かす。


 ベッドサイドにある小さなテーブル。その上に設置してあるゲーム機に手を伸ばす。発売当初は大人気で手に中々入らなかったSwitchだが今では灯里の手元にあった。Switchにはここ最近、灯里が楽しみにしているゲームがダウンロードされていた。今日の朝、プレイするのをぐっと堪えて夜まで我慢したのだ。誰か褒めてくれないだろうか。


 灯里がその手のニュースばかり検索していたからか、たまたま目に入った新発売のゲーム『悲劇のマリオネット』。


 この手のゲームに飢え始めていた灯里にとって、砂漠の中で水を差し出されたようなタイミングだった。ここ最近の灯里は今日のために頑張っていたといっても間違いではない。


 仕事上のトラブルもこれで耐えられてきたようなものだ。もはや明日の有休一日の予定はゲームで埋まっている。この部屋は煩わしい現実から切り離され、『悲劇のマリオネット』の世界になる。


 部屋の明かりを消し、ベッドサイドの間接照明だけになる。Switchのゲーム機を手に取り、照明に照らされた手元のゲーム機の電源を点けた。


 さあ、『悲劇のマリオネット』の世界へ飛び立とう。


 Switchの画面を見る。灯里は画面に表示されたゲームのアイコンを選択した。ゲームに関することを思い起こす。


『悲劇のマリオネット』はいわゆる乙女ゲームだ。ネット記事から見事に誘導された灯里は公式サイトを見て、まずイラストに惹かれた。可愛らしい主人公と、イケメンの男達。自分好みの美麗なキャラ絵。わくわくしながらストーリーを見て、ああ、これは買わないとな、と思ったのだ。この手のゲームは何度やっても面白いし、それぞれの面白さがある。よほどのゲテモノや超展開じゃなければ外れはないはず。ストーリーの大筋は珍しいものではなかった。学園に主人公が入学し、そこで起こる様々なイベントを経て、キャラクター達の好感度を上げていく。そして最終的には誰かと結ばれる。


 灯里は悪役令嬢というのも好きなので、そちら側も気にはなった。悪役令嬢はかなりの美人であり、正直これだけの美貌なら王子になんかこだわらなくてもどうにかなりそうだと思う。一途な愛の裏返しだろうか。


 一度目は攻略サイトを見ずに。二度目からは攻略サイトを使いまくり、存分にハーレムルートを目指す。その予定だ。


 灯里はオープニングの映像を見ながら、これからの予定に胸を膨らませた。


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