僕、逃亡中【BL小説】

皆歳いんげん

第1話 はじまりの場所




ふと気がつくと、目の前の景色が変わっている事がある。


 心が傷つかないように、少し自分を遠くに置いているときだ。でも、流れていく電車の景色くらいには認識をしている。なのに、今は違う。


「なに、ここ何処」

 全く、理解できない。暗い場所だ。周りが見えない。

 硬いコンクリートの地面の感触。

 外だ、夜の野外。秋の虫と蛙が五月蠅い。でも、車の音や人の声は一切しない。思い出したように呼吸をして、夏が終わったばかりの生温かい空気を大きく吸い、吐き出した。風が手に当たる。

「ん?」

 手の感触がおかしい。濡れている。何だろうと腕を上げた。すると、ぱっと光が降ってきた。すぐに振り返ると、建物のLEDライトのセンサーが反応して、点いたみたいだ。頼りない光だけど、やっと周りが見えるようになったので、改めて前を見た。


「うわっ」

 しゃがみ込んでいる僕の前には、誰かが寝転んでいた。男の人だ。草臥れたTシャツ、作業服みたいなズボン。清潔感のない髭だらけの顔。その目は見開かれて、夜空を見上げている。あの、と話しかけようとして、少し腰を上げたら、後ろから照らしてくるライトが、何かを光らせた。男の膨らんだお腹の上。そこには、何か光る物がのっている。


「カッター?」

 男のお腹には、カチャカチャとダイヤルを回して刃を出す、大型のカッターナイフが……生えている。


 違う、カッターナイフが、お腹に刺さっている!


「ひぃあああ!」

 僕は、飛び退いた。後ろに尻餅をつくように倒れ、コンクリートで手を擦った。痛い、と呟いて、自分の右の掌を見た。真っ赤だった。慌てて左も見たけれど、こちらも真っ赤だ。

「あっ……うあ……えっ、なんで」

 パニックになって、両手を擦り合わせた。手の色は取れない。

「違う、違う! 違うよ、僕は、関係ない! こんな人、知らないし、僕じゃ無い! そうだ、きゅ、救急車」

 ぱっと思いつき、兄が買い与えてくれたスマホを探す。長い丈のTシャツの裾を掻き分け、ズボンのポケットを漁った。手に当たるのは、クシャクシャに詰め込んだレシートと小銭だけだ。


「スマホ、どこ行ったの⁉ リュックは!」

 普段、出かける時に背負っている黒いリュックは何処に行ったのだろうか。パニックが段々と焦りと怒りに変わった。辺りを這いつくばるように、スマホとリュックを探した。

「無い! なんで、どうして⁉」

 文句を言って、男をもう一度見た。そして、気がついた。男のカッターナイフの刺さったお腹が、上下していない。顔も、先ほど見た時と変わらず、瞬きもしない。さぁっと血の気が引いた。目の前の男は、もう息をしていない。死んでいるんだ。


「うっ……あっ、こわっ……こわい」

 手が、足が、震え始めた。ボロボロと涙が流れ出す。喉が締まって、呼吸まで震えて、ヒューヒューと五月蠅い。静かにして欲しい、考えないと。此処は何処で、この男は誰なのか、なぜ僕は……死体の前で手を真っ赤に染めているのか。

「あっ……僕は……」


 自分の名前は勿論わかる。松山 理斗だ。三月に高校を卒業して、お世話になっていた養護施設を出た。そして、先に施設を出た五歳年上の兄の灯馬と暮らし始めた。警察官になった兄には、大学進学を勧められたが断り、アルバイトを掛け持ちして働いていた。

 勤務先では、とても可愛がって貰えた。ファミレスのアルバイトでは、男は厨房スタッフになることが多かったけれど、容姿が良いという理由でホールの担当にされた。

 自分では気に入ってないけれど、少し目尻の上がったパッチリとした目は、黒目がちで、涙袋も大きく、目力が強く印象的だと褒められる。一度も染めた事が無い黒髪は癖もなく艶やかで、子供の頃から意識的に品の良さそうなショートにしている。そして、色白で、すぐ紅潮するマシュマロのような頬は赤ちゃんのようで、一緒に働く女性スタッフからは「バブみが強い、赤ちゃんイケメン」と称されて少し傷ついた。今日も、彼女達とシフト通り三時まで働いた。


「それから……約束があって……会いに行った」

 今日、九月二日が誕生日の、あの子に。


「……あれ?」

 あの子は、どんな顔だった? どんな人だった? 記憶は靄が掛かったように、あの子を覆って思い出せない。そこから、先が出てこない。

「どこへ行ったんだろう……」

 一緒にいたはずなのに、側にいない。突き上げてくる焦燥感に襲われて、キョロキョロと見回したけれど、小さなLEDが照らしてくれる範囲は狭い。コンクリートに描かれた白線と車止めがあり、此処が駐車場と予想する。後ろにある建物は何だろうか。

「森? 大きな公園? ここ、どこ?」

 頭を叩いて必死に思い出そうとするけれど、ここに来た経緯は何も思い出せないし、死体が目の前にある理由も思いつかない。自分は今まで、誰かの恨みを買うような事はしていないと思う。喧嘩をしたこともない。大事なときにミスをするような間の悪いところはあるけれど、真面目に生きて来た。世の中の理不尽に胸を痛める事もあったけれど、誰かを殺したいなんて思った事がない。

「どうしよう」


 呆然と飛び交う虫を眺めていると、じゃり、と誰かの足音が聞こえた。

「っ⁉」

 背中に震えが走った。咄嗟に、見つかったらまずいと思った。この状況では、誰がどう見ても、僕が殺したと思うに違いない。ぎゅっと身を縮こまらせて、息を止め、足音に耳を澄ませた。どうか、こちらに来ないで欲しい。僕に気がつかないで!


「……」

僕の願いは叶い、気のせいだったのか、その後は何の音もしなかった。止めていた息を静かに吐き出すと、自然と肩の力が抜けた。そして僕は、改めて目の前の男を見下ろし、途方に暮れた。


「警察に……」

行くべきだろう。分かっていたけれど、怖かった。苦労して警察官になった兄の灯馬は、どうなるのだろうか。家族が殺人の容疑者になったら、まさか、職を失ったりするのだろうか。心臓がギュッと痛んだ。人の命を奪ったのに、どうしても溢れ出すように、兄や自分のこれからの事が、頭の中を駆け巡った。やっと、人並みに自由で幸せな生活が手に入ったばかりだった。それなのに、全てを失って、殺人犯として塀の中だ。また規則に縛られ、見張られて、大勢の中で孤独な生活を送るのかと思うと、溺れたような感覚になる。それに、兄はどんな目で世間に見られるのだろうか。


「兄さん、ごめん、ごめんなさい」

 ポロポロと涙が流れ、コンクリートの地面に流れ落ちた。嗚咽が止まらず、鼻水まで垂れてきた。

「でも、どうして……僕、この人を?」

 見知らぬ男を殺すに至った経緯が思いつかない。悪夢を見ているだけだったなら、どんなに良いか。僕は、涙が零れる目をギュッと閉じて、目を覚ましたいと願った。しかし、血液で濡れた手の感覚も、何故が痛みを感じる頬も、とてもリアルだった。


 このまま、逃げてしまおうか。


悪魔が背中に触れた気がした。聞こえるはずの無い、心臓の鼓動がドクドクと耳の中で響いた。涙が止まり、目を見開いた。


 その時、車が近づいてくる音と、光がやって来た。僕は、焦って逃げ出そうとしたが、足は震え凍り付いたように動かなかった。

「っ⁉」

車が少し先に停車し、眩しい光が襲う。咄嗟にそちらを向き、腕で目を覆った。車は、白い軽トラックだった。そのヘッドライトが僕の居る場所を照らしていた。五メートルは先に止まったけれど、薄暗い状況になれていたので、昼間のように明るく感じられた。


「あ……」

此処には、男の遺体が転がっていて、血だらけで座り込んだ僕がいる。見つかってしまう! 僕は、トラックの光から男の遺体を隠そうと、目一杯腕を広げた。

「ちが……あの、ぼく…」

焦って言葉が零れる。このまま走り去ってくれないかと願ったのに、無情にも軽トラックの運転席が開いた。

背の高い男が降りてきた。男は半袖のつなぎ姿で、前は大きく開かれ白いTシャツが見えている。髪は傷んだ金髪のウルフカットで、毛先が軽く跳ねている。金髪の根元は一センチほど黒髪が覗いている。すこし前髪の掛かった鋭い目が、僕と男の遺体を見下ろしている。


「うわぁ、なかなか衝撃映像だねぇ」

 腰を少し落として、ポケットに手を突っ込み、がに股で近づいてくる様子は、チンピラのようだった。男の、筆で描いたようなクッキリとした切れ長の二重の目は、輝いていた。唇の薄い大きな口は、ニヤニヤと微笑んでいる。


「あら、あら、あらぁ」

 男は僕の側まで来ると、男の遺体を楽しそうに覗き込んだ。僕の心臓は、ドクドクと早鐘を打った。見つかってしまった。僕は、目を見開いて男を見上げた。

 現れた男は、年若い青年だった。鍛えられた逞しい体をしている。更にとても背が高く、手足が長く抜群のスタイルだった。顔は、小顔で整った顔立ちをしているが、こんな状況で、ヘラヘラと締まりの無い表情をしているのが不気味だった。


「あ、あの……ごめんなさい、僕……」

 僕は、縋り付く様な目で彼を見上げた。

「なんで、俺に謝るの」

 青年は、ケラケラ笑い

「謝るなら、このオッサンにじゃない?」

 そう言って、男の頭をビーチサンダルの足で蹴った。

「ひぃ!」

彼の突飛な行動に、僕の口から、悲鳴が漏れた。遺体の顔が、横向きに変わった。僕は、現れた青年が普通の人間じゃ無いと気がつき、怖くて、また体がガタガタと震えだした。


「君、このオッサンに何かされたの?」

 青年は、前屈みになり道に落ちている面白いものでも見るように、男の遺体の周りをウロウロしている。

「わ、わかんない、です」

「わかんない?」

 青年の興味が僕に移り、今度は僕をジロジロと眺め始めた。まるで肉食獣と獲物の気分だった。

「何で此処に居るのか! この人が誰なのか、全然分からないんです!」

 僕の口から言葉が溢れ出し、自分でも驚くほど大きな声が出た。

「しー、見つかっちゃうよ」

 青年は唇に人差し指を当てて、片目を瞑りながら微笑んだ。僕は、軽い調子の青年に、底知れぬ恐怖を感じた。ソレと同時に、人に出会い、事件が発覚したことに安堵もしていた。


「あの……」

「ねぇ、本当に君が刺したの?」

「わかりません。でも……僕、血だらけだし」

「もしかしたら、他の奴が殺して、君に罪をなすりつけて逃げたのかもよ」

 青年の言葉は、蜘蛛の糸のようだった。そうだったら、どんなにか良いか。僕は、その考えに浸りたくなり、救いを求めるような目で彼を見つめた。そして、ふと一緒にいた子を思いだした。


「誰か、大事な人と一緒に居たんです……あ、あの! 近くで人を見ませんでしたか⁉」

 僕が血だらけの手で、つなぎを掴み、しがみ付くと青年の顔が歪んだ。

「……さぁ、見てないけど」

「どうしよう! どこに行ったのかな」

 気がついてからハッキリしない頭は、靄がかかっているようだ。探している人が誰か思い出せないのに、忘れてしまった事は覚えている。一体、何があったんだろう。

「ソイツがやったの? でも、このまま警察が来たりしたら、絶対に君の犯行になるよ。逃げちゃえば?」

 青年は、しがみ付く僕に顔を寄せた。表情はニヤニヤと笑っているのに、その目は狩りをする動物のように鋭かった。

「違う気がするけど……探さないと! 絶対!」


「じゃあ、とりあえず逃げるの? なら、このカッター持ってく?」

 青年は、そう言うと僕を振り払い、足を開き遺体をまたいで、腹部に刺さったカッターナイフを躊躇無く抜いた。

「うわああ!」

 青年の奇行に僕が悲鳴を上げて飛び退くと「ちょっと、五月蠅いよ」と軽く注意する言葉が掛けられた。

「あー、凄い血が垂れるわ」

 カッターナイフから、ポトポトと血が滴り落ちる。怖くて顔を背けていると「おっ!」と言う声と共に青年が走った。慌てて、その姿を目で追う。

「水場を発見、出るかなぁ?」

青年は、ナイフを持って廃工場のライトへ寄っていった。そして隣に設置されている雨水タンクの蛇口を、落ちていたボロ布で捻った。ジョボジョボと水が出てきた。青年は、勢いの無い水でナイフを洗い、上下に振って雑に水を切ると、カチャカチャと歯をしまい、ナイフをつなぎのポケットに突っ込んだ。


「ほら、水無くなる前に、手、洗おうよ」

 僕の所に戻ってきた青年は、嫌がる僕の腕を握って、強引に流れ出たままの水の所まで連れて来た。身長も体格も違い過ぎて、散歩を嫌がる犬くらいの抵抗にしかならなかった。

「血って乾くとガビガビになるでしょ」

 青年は、僕の横に立つと、子供に手を洗わせるように手首を握って、ゴシゴシと手を動かした。圧倒された僕は、呆然とされるがまま手を洗い、ボロ布で拭われた。


「よし、じゃあ行こうか」

「は?」

「は、じゃないよ。誰か来る前に逃げるに決まってるでしょ」

「あの、ちょっと……」

 困惑する僕は、半ば無理矢理に軽トラックまで連れてこられた。そして、目の前で助手席のドアが開かれ、押し込むように座らされ、ドアがバタンと閉まった。


「まって、僕……」

 煙に巻かれたように、ぼうっとしている間に、状況が早送りで進み、頭は思考停止状態だ。まるで詐欺にでも遭っている気分だった、僕の小さな声など耳に入っていない青年は、運転席側に回り、車に乗り込むと「しゅっぱーつ」と左の拳を窮屈そうに振り上げた。

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