異色膾炙
殊更司
プロローグ
閑散とした教室で
「ああ、もう。わかんないなあ」
わざとらしく語尾を上げて、真は言った。
「だめ」
真の真意など言わずともわかっている。宿題の答えを教えてもらいのだ。
「けち」
「教えたら、真のためにならないから」
「じゃあ、いつまで経っても帰れない」
「それは真だけ。私は待ってるだけだし」
「もう。それが親友に対する……シウチ?」
覚えたての言葉をすぐに使いたがるのが真の癖だった。阿呆のくせに賢く振る舞おうと背伸びをする様は滑稽で、いくら見ていても飽きが来なかった。
本当に賢いなら、算数の問題くらい容易く解いてみせたらどうなのだ。そんな言葉を飲み込みつつ、二階堂は答えを提示した。
彼女のためにならないと言った手前、矛盾しているようだが、一連の会話はある種の習慣だった。
限界まで真に考えさせて、それでも答えが出ないなら二階堂が教える。非常に稀だが必死に頭を捻らせることで、真自身が答えを導き出せる時もあった。だから思考させる習慣は彼女のためにも絶やしてはならない。それは二階堂なりの心遣いだった。今日は真の様子からして、これ以上あたまを絞らせても答えは出ないと直感していた。
「さすが。これだけ頭の良いニカちゃんならアレになれるね。あの、カンリョウ?」
「官僚が何をする職業だか知ってるの?」
「国を動かす的な」
「絶対に知らないじゃん」
「もう、そんなことはどうでもいいの。門限まで時間が無いし、早く帰らないと」
話をはぐらかして、真が立ち上がる。木板と椅子の滑り止めが擦れて、聞き慣れた不快音が鳴った。
黄昏が教室を朱く染めている。乱立する建造物に呑み込まれていく落陽は、どうしてだろう不安を煽る。逢魔が時。あの世とこの世の境が曖昧になる時間帯。それは決して子供騙しの文句ではなかった。
落陽を背にした廊下は更に薄暗かった。朱を押し除ける影が点在し、奥まった方に溜まる闇は二階堂らを誘っているように見えた。
四年生の教室は学校の二階にある。廊下を突き当たると、音楽室に階下への階段、それと手洗があった。
「ニカちゃん、あのさ、その」
背後で真の立ち止まった気配を感じた。
振り向くと、彼女はもじもじしながら手洗を指差していた。赤いペンキの塗られた扉は経年劣化による損傷が激しく、所々剥げている。
「いってらっしゃい」
「いや、でも」
「ここで待ってるから」
「違くて、ニカちゃんも行っておいた方がいいんじゃないかなって」
怖いのだろう。薄明の中、一人で入るには気味の悪い場所だ。が、真の恐怖の対象は暗さや心細さなどではなく、噂に依るところが大きいと思われた。
全国の誰もが知っている大怪異。日本の共通認識に上り詰めて、信仰の対象にすら成った厠の神。トイレの花子。彼女はきっと、それを恐れているのだろう。
しかし。
「居ないよ」
「何が?」
「花子さんは、もう、どこにも居ない」
凡ゆる手洗に出没した受動的怪異、厠神の花子はとうの昔に力を失っていた。それに彼女は実のところ誰も殺してはいない。害を為す意図はなく、人類側が一方的に怖がっていたに過ぎなかった。
厠神の真意は至極単純で人が普遍的に持つ願いと変わらなかった。だからその強大な力に反して、力を振るうことはしなかった。強力無比。故に何もしない。
「べ、別に花子さんが怖いわけじゃなくて」
無い見栄を張りながら真が地団駄を踏む。限界が近いのだろう。かと言って、彼女を甘やかすわけにはいかなかった。中学年にもなって一人で手洗に行けないのでは、真の父に合わせる顔がない。彼女の母は死産でこの世に居なかった。真の自立を促すのは幼馴染の自分でなければ、と二階堂はいつからかそう考えるようになっていた。
「いいから、ほら。行きなよ」
「帰り道で漏らしても知らないからね!」
わけのわからない捨て台詞を吐き、真が手洗に消えて行く。思わず笑いが溢れた。
学校を出る頃には更なる闇が幅をきかせていた。星が瞬かない情緒の失せた空には、沈みゆく朱を退去させる黒幕が、徐々に体積を広げている。
まだ十八時前にも関わらず人の気配がまるで感じられない。ついこの間まで散々喚いていた昆虫の合唱はすっかり鳴りを潜めて、民家から漂う生活音すら聞こえてこなかった。
異常に静かだった。辺り一帯だけ現世から隔離されたような錯覚に陥る。
学校から二人の家まではそう遠くない。歩幅の小さい二階堂らでも時間にして二十分もかからなかった。
戸建ての真家。道路を挟み隣に建つ背の低いアパートが二階堂の家だった。
歩を進める間、どちらからも言葉を発しなかった。真から手を握られていることに気づく。肌寒いのに手汗でひどく濡れていた。
いつもと変わらない通学路。何の変哲もない通い慣れた路。それなのにどうしてだろう二階堂の身体は緊張で強張っていた。理由はわからない。それは本能から来る警鐘のように思えた。普通じゃない。
横に長い小学校の突き当たりを曲がり、落陽の朱がいよいよ辞世の句を読んだ頃。胸中で飽和しそうな違和感の正体を看破した。
居る。
数歩先の電柱から影が伸びている。夜に押し潰される寸前の陽が、明らかな気配を地面に焼き付けていた。
身体を半分ほど出して、乱れた黒髪を垂らすアレは間違いなくこの世の者ではない。二階堂の嗅覚がそう告げていた。現世に生きる者であればいつかは遭遇するだろう、あるいは目撃するだろうそれは、受動的怪異。
最悪だ。運がない。まさか対峙することになろうとは。突如として訪れた日常の転化に様々な思考が頭を駆け巡る。
しかし。やらなければならないことは明確に一つだけ。散漫とした思考回路を振り切って決心した。
──真を守る。
霊的素質であれば覚えがあった。霊能の家系でもないのに、生まれつき授かった超常の力。いま振るわなければいつ振るう。
真の指を振り解いて前に出た。
瞬間。
ぼとり。と、重たい何かが落ちる音を耳朶が拾った。心臓が痛いほど跳ねた。みるみるうちに下がる体温は、それと比例して背中に冷たい汗を滲ませた。
先ほどまで在った電柱の影が消えている。死んだ魚のように虚な目をした怪異が、いつの間にか姿を消していた。
「はあ、はあ、ハア、ハア、ハッ、ハッ」
急速に息が乱れていく。
振り向いてはいけない。見てはいけない。
きっと後悔する。それでも見なければ。
何故なら、それは既に起きていて。
背後の光景は過去のものだから。
いくら後悔しても遅いのだから。
決心して、振り向いた。
「──ッ」
同時に。耳を劈く音が鼓膜を震わせた。
五月蝿い。五月蝿い。喉が痛い。
それから気づく。それは二階堂自身の慟哭だった。
息継ぎ。悲鳴。息継ぎ。悲鳴。
嗚咽混じりの嘆きを闇夜に響かせた。
膝を突く。泥濘地帯を踏み締めるような赤い水音が鳴った。
黒々とした池の中に、かつて真だった肉塊が転がっていた。右腕と頭部が胴体から離れて夥しい鉄分の海を広げている。
「治さないと……」
嘆いている時間はない。二階堂は体内に眠る力を呼び覚ました。まだ間に合う筈。
生まれながらに授かった天与の才は、明らかに異質で文字通りどんな現象でも引き起こせた。が、これまでの短い人生で力を行使したことはほとんど無かった。
何でもできる。故に何もしない。それは奢りではなかった。ただ躊躇があった。人間が行使して良い基準を遥かに超えてしまっている力には代償が伴う筈。そう思って力は善行のみに使うと決めていた。
今がまさに。その時だった。
「治る、大丈夫。治る、大丈夫」
自分に言い聞かせながら力を手繰る。紫の稲妻が体外に放出されて、眼下で転がる肉塊に干渉した。止め処なく溢れる血が逆流し肉片に戻っていく。離された腕を肩と接合。虚な目を剥く頭部を首と接合。
果たして、真の肉体はまるで時間が遡ったかのように元通りの形に戻った。
「大丈夫……大丈夫……問題ない」
「なにそれ」
突如。
頭上からくぐもった声が降りてきた。視界の端にブーツが映る。
はっと視線を持ち上げて、ソレを見た。
薄闇に浮かぶ朱い外套。顔を覆う黒いマスク。乱れた黒髪。覗かせる虚な瞳に白い顔。
街灯の明かりを受けて立つ女の姿形には覚えがあった。
一週間前、東京の交差点で通り魔殺人を行った非情な怪物。誰が噂したのか国の箝口令を破り、いつの間にか世間に浸透していた悪鬼羅刹の共通認識。
音に聞こえた大怪異。頬裂ける鋏の女。
それがどうして静岡に居るのか。受動的怪異は神出鬼没に顕れて、ある程度の人間を殺した後は役割を終えて消える。そう授業で習っていた。報道の情報が確かなら、頬裂ける女は東京で数百人単位を殺している。恒常性としては十分な働きをした筈だろう。それなのにどうして。まだ現世に留まっている。
「イイわね。最高よ」
怪異は徐に真の腕を引っ張ると、宙に持ち上げた。まるで吊るされた鮪を値踏みする漁師のように舐る視線で親友を見た。
「離せ……!」
喉を震わせて凄みを効かせる。
瞬間。
怪異は真を遥か上空に放り投げた。
思わず親友の身を目で追う。
視界の端で怪異が消えた。次いで巨大な羽虫が横切ったかのような空気の震えを耳朶で捉えた。
瞬きの間に再び怪異が姿を現すと、重力に従い落ちてきた真を両腕に抱えた。マスクと髪の縫い目から溢れた片方の目が、三日月のように歪んだ。
そして。二階堂は左肩から先の感覚が霧散していることに気づいた。切られている。痛みが走る前に痛覚を遮断。止血を施した。
怪異の動きは、とても目で終える速度ではなかった。
「生意気」
「殺す」
「無理よ。だって、あなたが一歩を歩く間に私は百歩動ける。それは時間を止めているのと同じこと。限りなく遅延した時間の中に人は入って来られないもの」
切られた腕は既に生えていた。指を握っては開き動作確認。問題ない。
「治癒の領域を超えた再生速度。他者にそれを与える特異性。あなた何者?」
「……ろすろすろす」
ぶつぶつと
瞬きをする。眼前に真が落ちた。
瞬きをする。外套の一部ごと腕が落ちた。
瞬きをする。怪異の悲鳴が轟いた。
「な、何が、起き、起き、て」
視線を上げる。と、そこには怪異の胴を掴む巨腕があった。
「奥に見える。強大な、何。どうして」
蒼白い五指は一切の躊躇なく、朱い外套の怪異を握り潰した。
黒々とした雨が降る。
怪異の血も赤いのか。なんとはなしに思いながら真の側に寄った。
「良かった」息をしている。「本当に」
真が目を開く。他の人に見えているのかどうかは知らないが、怪異の血に塗れた彼女の顔はひどい有様だった。
「二階堂、ちゃん」
油断をしていた。
暗転。空。暗転。空。真。
視界が縦横無尽に回転した。
真は二階堂のことを渾名でしか呼ばない。妙に仰々しい苗字が可愛くないから、という勝手な理由で『ニカちゃん』としか呼ばなかった。名前は二階堂自身が嫌っている。それを知っている真は、渾名を苗字から取った。
そして気づく。思考が停止していない。首から離れた頭部だけでも二階堂は死に至らなかった。身体の裡に宿る恒常性がそうさせていることを自覚した。
二階堂に死なれては自分も消えてしまうから生かす。言外の意図を悟った。
勝手な奴。そう思いながらも感謝した。死なないのであれば外套の怪異を殺せる。立ち上がる真を見やった。
「ああ。彷徨い続けた甲斐があったわ。現世で活動するなら、やっぱり健康的な空の肉がないとね」
──ああ。そうか。
聞き慣れた声でひとりごちる彼女は、既に真ではなかった。間に合わなかった。肉体の器を修復しても、魂は戻らない。そこで初めて自身の異常な視点に気がついた。壊れたなら直せばいい。そんな理屈が通じるのは二階堂だけだった。
可愛かった親友はもう居ない。見栄を張りたがる幼馴染は戻ってこない。鼻水を垂らしてすぐに泣く真は帰ってこない。阿呆でも自分なりの努力を忘れないあの子は、もう記憶の中にしか存在しない。
その事実を直視してしまい視界が歪む。生温かい雫が頬を擽った。
頭部を首に接合させるのには、時間がかかりそうだった。
二階堂は去り行くかつての親友を歪んだ視界の中で見送ることしかできなかった。
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