三話 光虫

 煌々と照る日差しの下で、二階堂は狭い住宅地を縫うようにして、ひた走っていた。紫電を纏い強化された膂力で駆け抜ける。

 異物を追い続けて、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。一時的に性能が上昇した動体視力で、車や人の障害物を潜り抜けながら、ふと思った。

 体力だって無限にあるわけではない。競合に見つかる懸念もある。両替町で目撃した怪物じみた少年が脳裏を過った。早いところ異物を捕らえてしまいたい。

『二階堂、流石に疲れてきたかもだ』

 背子はいこも限界が近いようだった。紫電を操作してくれている彼女が音を上げれば最後。二階堂は筋骨強化の術を失うことになる。地を叩く足裏に渾身の力を込めて、更に距離を詰めようとした。

 刹那。

 突如として眼前に現れた大量の黒い点に阻まれ踏み止まった。勢いを殺せず浮遊する黒の密集地帯へ飛び込んでしまう。唸るような振動が耳を聾した。

 そして気づく。この宙に舞うモノは全部。

 虫だ。昆虫だ。虫類だ。

 虫を触ることに抵抗感はなかったが、種類を問わず夥しい虫が密集する場所へ好き好んで飛び込むほど、酔狂でもなかった。

 最悪。思わず口にしそうになったが、なんとか踏み止まった。口を開いたら咥内に侵入されそうだ。身体中に纏わりつく不快感を一蹴するため、紫電を周囲に解放するよう背子に頼んだ。

 周囲に漂う浮遊霊から力を吸収し、超質量が体内で攪拌される。すると身体には、より強力な紫電が纏わりつき、周囲の虫螻を焼き切った。連鎖して爆ぜていく虫の破裂音はどこか夏の花火を思わせた。

 密集した虫の大半が焼き切れたことを確認すると、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。耳朶にこびりついた羽音が未だに鳴り続けている。今度こそ言葉に出した。

「最悪!」

『心中お察しするよ』

「しかも異物を取り逃がした」

 漠然とした位置を掴むことはできた。かなりの距離を離されている。追いつくのは無理だろう。

「クソ。誰がこんなふざけた真似を」

 悪態をついて帽子を脱ぐ。手で叩いて虫が付着していないことを確認し、片手で髪を掻きむしった。肩口まで伸ばしたストレートを指の間に感じる。虫は絡まっていないようだった。安堵して帽子を被り直す。

 と、背中に刺すような殺気を感じた。

 すぐさま振り返る。

 視線の先には女が佇んでいた。淡い肌色のシャツにチノパンの彼女は、タイミングからして虫を操った本人だろう。

「おい、お前だろ、さっきの趣味悪い妨害をしたのは」

「……」

 声を張って訊くも虫使いから返答はなかった。異物への接触を妨害された上、無視をされたことで、沸々と湧き起こる怒りを自覚した。せめて会話くらいしてほしい。

「聞こえてんだろ、昆虫オタク!」

 これみよがしに自分なりの罵倒を重ねた。「甲虫王女ゴキブリクイーン!」

『うはは』

「あのさ」

 存外に凛とした音色が響く。とても虫を操り攻撃をする者の声とは思えないくらい美しかった。

「やっと反応した」

 闇に溶けてしまいそうな長い黒髪を靡かせて、虫使いは歩み寄って来た。

「さっきの一瞬で、アタシはアナタを殺せたんだけど?」

 眠っているのか、と疑念が過ぎるほどの糸目を薄く開けて、虫使いが凄んだ。

「だからどうした」

「地べたに頭擦り付けて感謝こそすれ、罵倒される謂れは無いって言ってんの」

「勝手に言ってろ、虫螻ブンブン女」

 口で負けたら勝負でも負ける。喧嘩には場の流れを掴ませず圧倒した方が勝つ。二階堂は過去の経験から、そう学んでいた。罵倒浴びせて怒りで気を逸らすことができれば、いくらでも付け入る隙を見つけられる。

「これだから凡人は──」

 虫使いは当てつけるように言うと、

「──どうせアレの力が目当でしょう」

 髪をかき上げた。

「まあな」

「良家の偉いさんかもと思って加減したけど、まるで見覚えないわ。迷ったアタシが馬鹿だった。ただの競合なら殺しても構わないか」

「もう勝った気でいんのかよ。随分と自信家みてえだな」

「自信じゃない。確信よ」

 虫使いは笑うと、肘を曲げて手を掲げた。それを契機として、紫電の本流が彼女の身体を覆う。紫に白が入り混じった点が、周囲を漂い始めた。それと同時に響く羽音。

「今なら見逃してあげるけど?」

「こっちの台詞だ」

 先ほどの口ぶりからして、彼女は殺生への抵抗感が薄いと思われた。

 怒りに任せて殺すなんて口にしたのでは決してない。命を刈り取る覚悟を以て言ったのだと確信できた。

 それを特別異常には感じなかった。人を殺めても証拠が一切残らない霊能業界では、同じような手合いが跋扈している。

 こちらも殺す気で対応しなければ。紫電を送るよう背子に頼んだ。

 浮遊霊との交信が始まった。体内で撹拌した超質量を身体に纏う。肉体に力が満ち溢れ一時的な筋骨強化を齎した。

 紫電が迸る。

 膂力を乗せた足裏に力を込めて。

 駆けた。

 先手必勝。

 虫使いとの距離を瞬時に詰めると、腰を捻り右拳を振るった。速度には自信がある。瞠目した虫使いの腹に一撃。確かな手応えが中指骨に返ってくる。

 紫電の強化を受けた鉄槌は防がれていた。

 凄まじい強度の反発を受けて、隆起した骨が軋む。まるで鉄板でも殴ったかのような抵抗感だった。紫電の防護。虫使いはその扱いに長けているようだ。

 それでも拳を振り抜いた。

 苦悶に満ちた声を漏らし、虫使いが前方に大きく吹き飛んだ。住宅街の狭い路の向こうへと転がっていく。

 距離を取らせるわけにはいかなかった。虫を操り何かを仕掛けようとする能力者が、近距離を得手としている筈がない。

『追い討ちだ』

「言われなくとも」

 紫電で強化された膂力を以て稲妻のように走り抜けた。眼球が悲鳴をあげて、視界が瞬時に切り替わる。まだ立ち上がらない虫使いの腕を掴むと、無理矢理ぐいと引っ張り、空いていた右拳を顔面に叩き込んだ。

 再び苦悶の声。それはどこにも届かない。素質のない者には、霊能の姿も音も捉えられない。

 つまり。

 思うままに袋叩きができる。

 骨の耐え得る限界の速度で幾重にも拳を放った。一秒間に数回の抵抗感を中指骨に感じながら殴打する。

「いい加減……しろ。底辺筋肉女!」

 虫使いが吼えた瞬間。

 視界は白で支配された。

 次いで爆音。きんと耳鳴りに襲われた。

 状況が飲み込めない。爆風に吹き飛ばされて地面を転がった。コンクリートの硬い感触が身体のあちこちで主張する。

『おい大丈夫か』

「ああ。問題ない」

 多少、皮膚を火傷したようだが、爆破の威力は紫電の防護が軽減してくれていた。

 至近距離での爆発には、相手も巻き込まれた筈だ。案の定、虫使いは地に伏して咳き込んでいた。

 爆発の煽りをまともに受けた家の柵や煉瓦塀が見るも無惨な姿に変わっている。何度も直撃を受けるのは避けた方がいいだろう。

『攻撃は喰らったが、能力は読めたぞ』

「流石だな。聞かせてくれ」

『おそらく、紫電を他の生物に纏わせてのコントロールだろう。異常なまでに蓄積させた紫電を解放することで、爆破を引き起こしているんだと思う』

「いやそれって」非常に高度な技術がなければ実現しない筈だ。

 体表に覆わせた紫電は皮膚を焼きかねない熱量を有している。それを虫などに纏わせたら簡単に焼き切れてしまうだろう。

 虫使いの能力が背子の言う通りならば、術者は昆虫が焼け死なない程度に、紫電を纏わせているということになる。それはあまりに現実的ではなかった。他者へ紫電を送ることすら高度な技術を要求されるというのに。その上、対象の生物──それも複数匹──を死なせないように操るなどと。

 虫使いの周囲で再び光が集い始めた。悍ましい羽虫の合唱が響く。

 無論、素質が無い者に、虫の羽音を含め二階堂らの姿を捉えることは不可能だ。

 が、爆発は別だった。紫電から開放され空気を振動させる爆音は真っ当な物理現象として万人の目に留まる。

 異常を察知した近隣住民が巻き込まれる前に、住宅地から脱出したい。

 入り組んだ狭い道で対峙するのも不利だ。虫を密集させて迫られたら逃げ場がない。

 虚を突いた初撃で決めるべきだったのかもしれない。殺すとまではいかずとも、気絶させるくらいの力を込めるべきだった。相手の実力を測りかねて加減していた。何かの拍子に殺してしまっては寝覚めが悪い。

「ひとまず逃げるか」

 幼少期から倫理の箍が外れた両親から教育された霊能者には、まともな人間がいない。

 虫使いもその内の一人だろう。隠密性をまるで考えない能力からそれをひしひしと感じていた。多少、一般人が巻き込まれたところで気にしない。彼女はきっと、そういう類の霊者だ。

 紫電を帯びた虫の大群が迫る。

 踵を返して走り出した。

『さっきも言ったけど、私も疲れが溜まってきている。そっちで紫電操作するのはしんどいんだからな』

「わかって、る、よ」

 凄まじい速度で視覚情報が更新される。脳の処理に多大な負荷をかけるこの移動方法は控えたい、というのが正直なところだった。

 今日は異物の追跡を続けていたのも相まって余計に疲弊している。移動の空気抵抗や紫電による熱量のせいで、眼球の乾きも限界だった。

 背子も永遠に能力を行使できるわけではない。次に虫使いと対峙した時、早々に決着をつけなければならない。元々長期戦を得意とする質ではなかった。


 二分程度は移動しただろうか。住宅地を抜けると、大通りに出た。

 紫電を解放するよう背子に意思を伝達。少しでも休まなければ、この後の戦いに差し支える。

 瞼の幕を下ろして眼球に僅かばかりの休息を与えた。紫電の操作を一時中断した背子も悠遠の彼方で一息ついた筈。虫使いの気配が現れるその時を待った。

 彼女は必ず追ってくる。確信していた。虫使いは見るからに自尊心が高そうだった。実力も申し分ない。興信所の傭兵ごときに好き放題に殴られて、おめおめと帰る玉ではないと踏んでいた。

 時おり耳朶を打つ車の走行音。それと交互に鳴る横断歩道のアクセシビリティ。耳朶の裏で聞こえる息遣い。それらだけが瞼の裏を支配して、やがて心臓の鼓動が緩慢になっていくのを感じた。

『来るぞ』背子が呟くように言った。

 両目を開く。人の営みが点々と視界に広がった。

 眼球の乾きはそう簡単に収まらない。瞼に隠れた裏側の辺りがひりひりと痛んだ。涙の量が明らかに足りていない。持参し忘れた目薬が恋しかった。

 果たして虫使いは現れた。周囲に大量の虫を従えた彼女が無言で迫り来る。

 四つ。街灯を挟んで女は止まった。

 紫電を纏った虫だけが迫る。ぼんやりと光るそれらの動きは容易に見て取れた。迂回するように回避する。虫の飛ぶ速度は、大したことはなかった。

『二階堂、お前の意図は読めたが、タイミングを見誤ったら死ぬぞ』

 紫電の虫に追われながら、

「お前の方がミスしないか心配だよ」

 皮肉を飛ばす。

『ばか。私を誰だと思ってるんだ』

 で虫を誘導しながら近づいた甲斐あって、虫使いの脇はガラ空きだった。仮に彼女の周囲に飛ぶ虫が爆破されたとしても、数が少な過ぎる。紫電の防護を強めれば防げると踏んだ。

 刹那の一撃。二秒にも満たない紫電による膂力の超強化。短時間であれば、皮膚も眼球も耐えられるだろう。それで勝負を決める。

「背子」合図を送った。

 瞬間。

「点火」虫使いが言った。

 左腕が異常な熱を訴える。

 爆発と閃光。

 ジジ。

 昆虫の断末魔が聞こえた。

 左腕に衝撃を与えられ吹き飛ばされる。右肩から地面と接吻した。受け身すら取れずアスファルトの上を転がる。

「ああ! 痛え! クソ!」

 側臥位のまま尋常ではない熱を持った左腕を見やる。露出した肌は焼け爛れ、裂傷による出血で赤黒く塗れていた。目も当てられない酷い有様だった。

『既にどこかで付けられていたのか』

 霊能者との対峙では一瞬の気の迷いが命取りとなる。即座に体勢を立て直さなければならなかった。が、強烈な痛みで身を捩ることしかできなかった。思考が緩慢になる。

 そんな無防備な腹に一撃。虫使いからの蹴りをまともに喰らった。喉の奥から下劣な声がひとりでに漏れる。またしても地面を転がった。傷ついた左腕が擦れて尋常ではない痛みが走る。

「いい様」

 眼前に白が迫った。発光する光の中で緑色の虫が粉々に砕ける。瞬間。背子から紫電を受け取った。そのおかげで爆破から身を守ることはできた。

 それでも衝撃は殺しきれなかった。

 身体が宙を舞う。

 背中から落下。苦悶の声が漏れた。左腕がますます痛みを訴える。歯茎を剥いて呻く他なかった。目から溢れた雫が汗に混じり頬を伝う。

 死。単純明快な単語が脳裏を過った。殺される。純然たる事実が目前に迫った。

 爆破の連鎖が起こる。身体を縮めてひたすら耐えた。

 気づけば古本屋の裏側に居た。爆発音に気づいた通行人が訝しげな顔で次々に通り過ぎて行く。

 諦観の念を胸中に抱いて。

 背子に頼んだ。

を使うしかない」

『わかった。今から説得するが、間に合うかどうかはわからない』

「いいから早く行ってくれ」

 付き従っていた背子の気配が霧散する。の下へと向かったのだろう。

 足音が耳の奥で鳴った。大股で三歩程度の離れた場所に女が立っていた。

「怒りが全然収まらない。他人からあんなに殴られたのなんて、初めての経験よ。想像以上に腹立たしいものなのね」

 側臥位のまま女を見上げた。呼吸が浅い。息を吐く度に腕の火傷が痛みを主張した。

「だから殺すわ。やっぱり殺す」

「最初からやるつもりだったろ。甲虫王女」

 鼻腔の奥で血のにおいがする。痰と血が攪拌されて、喉はがらがらと音を立てた。

「本当に口が減らない。これでもまだ異物から手を引くつもりはないのね?」

「嫌だよ。こういう業界だ。殺されるのは覚悟してる。異物を追うと決めた時から、アンタみたいな奴と遭遇するだろうとは、漠然と考えていたし」

 もはや二階堂にできることは、背子の説得が間に合うことを祈り、時間を稼ぐことくらいだった。

 背子が戻る気配はまだ無い。極力、虫使いとの会話を引き延ばす必要があった。

「じゃあ、もう思い残すことは無いわよね」

 彼女の周囲で紫電の虫が集合した。離れて見れば、それは手の届く距離で瞬く星空のようだった。霊能の中でも類い稀なる技術を持つ者が生み出す光景は、ある種、幻想的と言ってもいい。

「……私を殺す人間の動機と名前くらいは知りたい」

 心底どうでもいいことを訊いた。

 虫使いに残っているかもしれない僅かばかりの情に賭けることにした。か細い声で瀕死を装い、もはや抵抗できないとこれみよがしに主張した。

「教える義理はないわね」

 紫電を纏う昆虫の数匹が迫った。

 まずい。

 情に訴えるのは、やはり無謀だった。殺生に躊躇のない霊能者が、人情に絆される筈がなかった。

 頭を捻る。他の話題。命の手綱を引き寄せる何かを振り絞った。

「いいだろ別に。それほど高い能力を有しているんだ。この争いに勝つのは、おそらくアンタだろう──」

 思ってもいない世辞を交えながら、

「──しかも、まだ手の内を隠しているように見える」

 能力の核心を突く台詞を吐いた。

「……何故、わかったの」

 紫電の虫が喉元に張り付いた。複数の脚が皮膚を擽る。急所だった。紫電を纏わない状態で爆破されたら、間違いなく死に至るだろう。しかし虫使いの興味は引けた。

「見ればわかる。操れるのは虫だけじゃない筈だ。おそらく、もっと体積のある生物も操作可能だろう。ただ、虫はそこらにいて操りやすいから、それを選択しているだけなんじゃないか。堆積に比例して能力のリソースが変わってくるとか、そんなところかな」

「この短時間でよくそこまで。アナタの言う通りよ。特に夏は虫が多いから、能力を行使しやすいの。体積に比例するリソースに関してもアタリよ」

「やっぱりそうか」

 体積の比例については勘だった。

「今後の参考に教えてちょうだい。私の能力って、そんなに予見しやすいのかしら」

「名前と動機」

「はあ。そんなに気になるの」

 虫使いは頭を掻いてから、

「まあいいわ」

 腕を組んだ。

「動機はそうね。家の事情よ。詳しくは言いたくない。名前は軒下、これでいい?」

 その名前には覚えがあった。どこかで聞いたことがある。死の間際にある脳は必死に情報を探し出した。

 眉間を絞りぶつぶつと譫言うわごとを漏らしながら、思考回路を稼働させる。思い出せれば、まだ会話を引き延ばせる。

 思い至った。

「まさか、軒下家か?」

「あら。知っているの」

 軒下家。霊能業界では有名な良家だ。高度な除霊能力を有し、数々の怪異を祓ったことで財を成した一家だった。更に、その中でも天才と呼ばれる者が居て。

「オマエが軒下の才女?」

「ああ。たまに言われるわね。ダサいから嫌いなんだけど。何の捻りも無くてそのまんまだし」

「なるほど道理で」

 軒下に立てついた霊能者は必ず消される。

 業界ではそんな噂がまことしやかに囁かれていた。事実、軒下を忌避する霊能は多い。何も除霊ができる霊能は軒下家だけではなかった。にも関わらず軒下が需要を独占しているということはつまり。並いる競合を蹴散らして地位を確立したということだ。噂はあながち間違いではないだろう。

「そろそろいいかしら、私の質問に答えてくれる? そのあと殺してあげるわ。喉を潰すから長い間苦しむと思うけどね」

「ああ」と、頷いた時。

 背子の気配が戻った。

『説得完了』

 胸中に希望が灯る。

『一秒しか貰ってないけど』

 十分だ。

 上体を起こして、訊ねた。

「花子さん、いらっしゃいますか?」

「はーい」少女の声が響く。

「は?」軒下が呆けた声を漏らす。

 刹那。

 辺りから浮遊霊の気配が消え失せた。

 紫電を操るために交信しなければならない彼らが消える。それは霊能力の機能不全を意味していた。

 喉元に張り付いた虫がころりと落ちる。同時に、軒下を守護するように舞っていた紫電の虫も全て光を失った。数多の点が地に落ちて、身体の制御が戻った彼らはそれぞれの生活に戻っていった。

「何が、起きたの?」

 浮遊霊は消えたのではなかった。正確には喰われていた。王女の顕現には、浮遊霊を消費する必要があった。

 交信から得る超質量だけでは飽き足らず。

 現れるだけでも霊的資源を食い潰す。

 燃費の悪い怪異の王女。厠神。

 立ち上がり、王女を見やった。切り揃えた黒い前髪に赤い吊りスカート。誰しもが頭に思い浮かべるであろうその姿は、怪異の風格に満ちている。

 王女は小さく嘆息すると、背子の世界へ戻っていった。

 顕現しただけの王女に力はなかった。彼女は何もしないし、ただそこに立つのみ。

 しかし。霊能者にとっては、それだけで命取りとなる。

 交信する浮遊霊を失った霊能は文字通り只の人間だ。紫電の防護も無ければ、能力行使に必要な資源も無い。完全に無防備となった者を制圧するのは簡単だ。殴ればいい。

 指の骨を鳴らした。相変わらず左腕は痛むが動かせないほどではない。

 悠々と歩き、軒下と顔を突き合わせた。身長はほとんど同じだった。息の触れ合う近さで睨め付ける。

 形勢逆転だった。

「意味不明。ど、どうして恒常性なんかと」

「あんまり使いたくなかったけどな」

 沈黙が訪れた。互いの視線と息が混じり決着を予感させた。

 数歩下り両腕を構えた。左腕は側頭部に構えて、右腕は顎下に掲げる。腰を落として前後にリズムを取った。

 軒下も倣うようにして腕を持ち上げた。素人同然の構えだった。

 勝利を確信して口角を上げる。肉弾戦には覚えがある。相手が男だろうと制圧できる自信があった。

 先に動いたのは軒下だった。視界の端で彼女の右拳が迫る。受けるまでもない。難なく払い除ける。軒下が体勢を崩して後退った。その動きに合わせて距離を縮める。再び拳が迫った。払い落とす。

 そうして後退を続けた軒下は、やがて閑散とした道に佇む戸建ての壁に背中をついた。

「はあ、はあ、クソ!」

 軒下の悪態。

 そして。

 左足の踵が浮くタイミングで、腕を内旋させて左拳を振るった。空気の抵抗を手首で感じながら、隆起した中指骨を軒下の顔面に叩き込む。鈍い打撃音が響いた。

「ぐ、ふあ……」

 拳を受けた弾みで壁に頭部を打ちつけた軒下は、鼻血を垂らしながら気丈にも舌を打った。

 異物捜索の最中で軒下と再び対峙するのは避けたい。再起不能にして、しばらく病院で横になってもらう程度には痛めつける。

 軒下が手の甲で鼻血を拭う。

 隙だらけだった。

 左拳を軒下の顔面に叩き込む。

 軒下が呻いた。

 もう一度。呻いた。

 もう一度。呻いた。

 右拳でもう一度。

 骨の軋む音が鳴る。

 血飛沫が舞った。

 軒下が膝から崩れ落ちた。

 そして最後に。

 軒下の顎に靴の爪先を叩き込んだ。

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