第28話 初登板
『選手の交代をお知らせ致します。ピッチャー、中田に変わりまして、片崎』
場内に鳴り響く交代のアナウンスに、ため息をつきそうになった。
七回裏3対2、1点リードのこの回に、一軍初登板の新人を投げさせるなよ、荷が重すぎる。
新人にも、それをリードする俺にも。
リリーフ陣が疲弊しているのは分かる。キャッチャーとして登板した投手全員のボールを受けているのだ、そのことは誰よりも分かっている。
とはいえなにも1点取られれば同点、2点取られれば逆転のこの場面で、投げさせることもないだろうに。
駆け足でマウンドへと向かう片崎の姿が横目に映る。
(こいつが噂のプロ野球初の女性選手か……)
マウンド上の片崎は、普段無駄にゴツい野郎どもばかり目にしている身からすると、どうにも華奢に見えて、頼りなく感じてしまう。
(って、ボーッとしてる場合じゃねえな)
こちらもマウンドに駆け寄る。初めての登板で確認しておくべきこともいくつかあるし、少なくとも声をかけておく必要はあるだろう。
「よう、初登板だな」
投手コーチと一言二言、言葉を交わしていた片崎に声をかける。あまり間を置いてもプレッシャーだろう。
向こうからは、はい、とシンプルな一言が返ってくる。表情からは緊張も興奮も読み取れなかった。
「調子はどうだ?」
「いつもどおりです」
「そいつは上々」
言葉少ななのは緊張しているのか、もともと無口なタイプなのか、やはり初対面では把握しきれないところが多い。
「一応確認するけど、変化球は何が投げられる?」
事前情報は頭に入っているが、すれ違いがあっても困る。
「基本はカーブとチェンジアップの2種類です」
基本、という言葉に引っ掛かりを覚えた。他にも投げられる球種はあるが、精度が微妙ってことか?
まあいい。言わなかったということは自信がないということだろうし、先発ならともかく、リリーフで完成度の低い変化球を投げる必要もないだろう。今無理に聞き出す必要もない。
「了解、球種のサインは覚えてるな?」
「はい」
「じゃ、楽に行こうぜ」
「はい」
結局、緊張しているのかどうかは分からなかった。
定位置に戻って座り込み、いつでも投げてこいと伝えるためにミットを2回叩き、構えた。準備投球でだらだらしていたら主審に目をつけられるしな。
片崎が投球動作に入る。
淀みのない動きには緊張した様子はない。上げた右足が前に移動し、しかし身体がなかなか開かない。
かと思えば、一瞬にして振り下ろされた左腕からボールが放たれる。
一直線に向かってくる白球は、構えたミットにぴしゃりと収まった。ボールを受けた瞬間、思わずへぇ、と声が漏れそうになる。
ストレートが沈まない。糸を引くような軌道のボールが、構えたミット目掛けて真っすぐに飛び込んでくる。
バックスクリーンを見ると、電光掲示板には128キロと表示されていた。
まだ肩慣らしで、多少力を抜いて投げたのだとしても遅い。
にもかかわらず、受けた印象としてはそれよりずっと速く感じた。電光掲示板の数字が140キロ台を表示していたとしても、大して疑わなかったかもしれない。それくらい、スピードガンの球速表示と体感の速度に差があった。
準備投球の上限五球を投げ終えると、先頭打者の長内がバッターボックスに入ってきた。
打席に立つ長内を見上げ、こいつのデータや対戦経験を脳内で反芻する。
こいつはストライクが1つ取られるまでは滅多に振ってこない。初対戦の投手には特にだ。わざわざボール球を投げてやる必要はない。
準備投球でボールを受ける限りでは、噂通り制球力に優れているのは間違いない。試合に入ってもあのコントロールは健在なのか。その確認も踏まえて、外角低めにストレートのサインを出す。
原点と呼ばれることもある、多くの打者にとって打ちづらいとされているコース。制球力を見るにはここに投げさせるのが一番手っ取り早いだろう。ミットはコースギリギリに構えた。
片崎が頷き、動き出す。
流れるような滑らかなフォーム。無駄な力みを感じさせない、洗礼された動きだ。
そこから身体に隠れていた左腕が突然、振り下ろされる。
(心臓に悪いフォームだな。けど)
低い。ボールの軌道を見て、そう感じた。
片崎の投げるストレートは確かに質がいい。それは準備投球の時点でも充分にわかった。ホームベース手前に来ても沈まず、重力に逆らうかのようにミットに突き刺さる。
しかしこれは低すぎる。ボール一個分、低く外れている。
外れている、はずだった。
『ストライクッ!』
しかし審判のコールはストライクだった。
コールの瞬間、バッターボックスの長内が審判へと振り向きかけて、やめる。審判への心証を考えれば賢明な判断だ。
まあ気持ちはわかる。ボールを受けている俺でさえ、始めはストライクゾーンを外れていると思ったくらいだ。
ホームベースの手前で、ボールがホップした。
人間の投げるボールが浮き上がるなんて物理的にあり得ない、なんて面倒くさいことを言う奴もいるから、こう言い換えた方がいいのかもしれない。
ボールが、予想した軌道ほど沈まない。
俺たちが普段見慣れ、脳内にインプットされているストレートという球種の軌道と一致しない。だからバッターも、ボールを受けている俺さえも欺かれる。
実際のところ球速としてはどんなものなのだろうと、バックスクリーンの電光掲示板を見てみる。
そこには133キロと表示されていた。
球速的にも、ボールのキレって点でも、準備投球の時点じゃまだ本気で投げてなかったってわけだ。まあ、それでも球速としては遅いことには違いないが。
何はともあれストライク。それも今の一球で長内の頭にはストレートという球種がこびりついているだろう。
(せっかくだしアレ、さっそく投げさせてみるか)
俺の出すサインに片崎は素直に頷いた。
指先からボールが放たれる。先程とほぼ同じコース、高さだけが僅かに高い。
そんなボールを見逃せるわけがない。当然長内はバットを振りにきた。
長内はタイミングを合わせる技術は高いバッターだ。今も先程と同じボールであればジャストミートでもおかしくないタイミングで振りにきている。
だからこそそこに、ボールは来ない。
ストレートとほぼ同じ軌道を描きながら、ストレートより20キロ近く遅いボール、チェンジアップ。
スイングの途中だというのに、長内の息を呑む音が聞こえた気がした。
バットが振り切られるのを待っていたかのように一拍の間を置いて、白球がミットに収まる。
完全にタイミングのずれた長内のスイングを見て思う。
(次のボール、ストレートで三振が取れるな)
予想通り、長内は高めのストレートを空振りした。
長内らしくない、完全に振り遅れたスイングだった。
(おいおい、思わぬ拾い物かもしれないぞ、コイツ)
そんな期待を裏付けるように、片崎は続く二人も凡退に打ち取り、1イニングを一人のランナーも出すことなく無失点で切り抜けた。
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