第25話 スタミナ
六回は危なげなく三者凡退。
だが七回、片崎のピッチングに綻びが生じた。時折だが、球が高めに浮き始めたのだ。
もともと片崎は高めにもストレートを投げ込む投手だが、そういう意図的なボールではなく抜けたような、中途半端な高さの力のない球が見受けられるようになった。
なまじここまでボールを完璧にコントロールしていたが故に、その僅かな綻びが目立つ。
「代えますか?」
中溝が俺に耳打ちする。
「六回まで投げ切れば先発初登板としては上々でしょう。球数が少なかったから投げさせていますが、ブルペンには二人、すでに準備させています。二人とも行けと言えばマウンドに上がれる程度には肩はできています。」
交代、か。
中溝の言う通り初登板なのだ。六回を投げ切れれば充分。ここで降板させるのは悪い考えではない。しかし……。
「いや、もう少し投げさせよう」
マウンドにいる片崎の顔を見て、ついそう言ってしまった。
闘争心を孕んだ、攻撃的な目。
こういう目をしているうちは、投手はなかなか崩れない。経験上そのことを知っているから、投げさせたいと思ってしまう。
どこかを痛めている様子もないし、早いうちにスタミナの限界を知っておきたいというのもある。
「……分かりました」
不満を表情に滲ませながらもすんなりと引いたのは、中溝も俺と同じことを考えていたからかもしれない。
実際、片崎は先頭打者をセカンドゴロ、次打者をサードフライに仕留めた。
だが三人目の打者への初球、速球がほぼ真ん中へと向かってしまう。
相手バッターもさすがにこれは見逃さない。快音と共に弾き返された白球はライナーとなり、マウンド上の片崎を襲った。
打球が速い。しかし片崎は逃げるそぶりを見せなかった。動けなかったのか、動かなかったのか。片崎が倒れ込む。
打球は? ボールはどこだ? 身体に当たったのか?
反射的にマウンドへと駆け寄りかけたが、その前に片崎が右手のグローブを掲げる。中には白いボールが収まっていた。
審判のアウトという判定が球場内に響く。俺は胸を撫で下ろしていた。
ベンチへと戻ってきた片崎は平然とした顔をしていたが、さすがに声をかけないわけにもいかなかった。
「大丈夫か? 打球が直撃したわけではなかったようだが……」
「大丈夫です、問題ありません」
片崎が顔色ひとつ変えずにそう言い切る。
「ならいいが……今回はここまででいいだろう。打球が当たったわけではないにしても、派手に倒れたんだ。どこか痛めているかもしれない」
だが片崎は頑なに首を縦に振らなかった。
「大丈夫です、投げられます」
「お前な」
「大丈夫です、投げさせてください」
なんなんだ、こいつは。
初先発で七回無失点なら充分な活躍だろう。だというのに、こいつはなぜまだ投げたがる。なぜそんなに投げたがる。
そういえばこいつは、アマチュア時代は試合らしい試合に出場していなかった。出場できなかった。
そんなにも飢えているのだろうか。試合に、マウンドに、投げるということに。
「分かった」
そう口にしていた。別に同情じゃない。ただもう少しだけ見ていたくなった。
強がりでなく、こいつはまだ投げられる。少なくともこいつ自身はそう感じている。けれどそれは実際にはどこまでなのか、それを知っておきたいのだ。
「監督!」
中溝のほとんど叫ぶような声が俺の耳に刺さる。
「危ないと思ったらすぐに降ろすさ。片崎。お前もそのつもりでいろ」
「はい」
片崎が頷き、ベンチの奥へと引っ込む。中溝はまだなにか言いたそうな表情をしていたが、それ以上は口を開かなかった。
あいつはどうしても必要なことならば絶対に口を出す。手も出す。だからあいつがなにも言わないということは、あいつ自身まだ様子を見てもいいと、投げさせてもいいと判断しているということだろう。
そう自分に都合のいいように解釈して、俺も自分の定位置のベンチへと座り込んだ。
八回裏、俺たちの心配を余所に、片崎は先頭打者をファーストフライ、次のバッターを平凡なショートゴロと危なげなくアウトに仕留めた。
なんだ、心配なさそうだな。そんな俺の思いを裏付けるように、三人目のバッターも平凡な当たりで終わる。
なんてことのないピッチャーゴロ。片崎も普段通りに捌こうとマウンドを駆け降りる。
もともと片崎は守備に不安を抱える選手という訳ではない。それは普段の守備練習でも確認済みだ。危なげなく捕球し、スローイングしようとした。
途端、崩れた。
砂山で足を滑らせたかのように膝を突き、ボールを持った手を掲げたままの状態で、為す術もなく、一塁を駆け抜けるランナーを見送った。
体力の限界、それが足にきていた。
俺は審判にタイムを告げ、マウンドへと向かう。
「片崎、交代だ」
「まだ投げられます」
片崎が立ち上がり、そう言い張る。
視線を下に落とす。片崎の膝はまだ微かに震えていた。俺は語気を強めてもう一度同じ言葉を繰り返す。
「交代だ」
「……分かりました」
喉の奥を無理やりすり合わせたような掠れた声とともに、片崎は俺にボールを手渡した。
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