しほさん
山田奇え(やまだ きえ)
しほさんと眼鏡
質素な1K賃貸、物を飾る趣味がない人の8帖はやけに広く感じる。
二人用のちゃぶ台にマグカップを二つ置こうとすると、配膳の終わる前に片方をしほさんが取り上げた。
灰色のゆったりしたタートルネックシャツに群青色のジーンズは――いつも通りの格好。
だけど、今日は見慣れない眼鏡姿だ。
「しほさんって視力悪いんですか」
「ううん、視力はいいよ。両眼とも1.5だ」
「じゃあ、なんだって今日は眼鏡をしているんですか。度が入っていないおしゃれ眼鏡とか?」
「いや、私はこの手のファッションには疎いよ。ちゃんと度も入ってる」
「でも、視力はいいんですよね」
「うん」
僕が目を細めているのに気付いたのか、しほさんはレンズの向こうで同じように目蓋を低くした。
「これは視力を悪くする練習でね。こう……目をぼーっとさせるとさ、度が高い眼鏡をかけていてもそのうちピントが合ってくるんだよ。その状態のままこいつを外すと……ほら、目が悪い人間のできあがり」
「そうですか」
いつも通りの奇行だ。
思えば出会った時もこの人はこんな感じだった。
母方の祖父の通夜で、焼香を三回目に炊く時に、こっそりと抹香を礼服のポケットに忍ばせたのを僕だけが見ていた。
「視野か、ツトムは〝視野〟ってものについてどう思う」
「視野、視野ですか」
「うん、人は思慮が及ぶ範囲のことを、視覚に関係する言葉で表現するでしょう。頭の中にあることを、外の世界に対する感覚装置で知覚したように話す。他にも受容についてなら聴覚。動物的直感なら嗅覚かな。そういう意味での〝視野〟」
「それは、なぜ考えることと見ることが結びつくのか、という議論をしたいということですか? それとも、人はもっと遠くを見渡すように思考の幅を広げるべきだという教訓話?」
「君は野暮だね」
しほさんは学者みたいに知的でもあって、少年のように無邪気でもある。
少しむくれる彼女を見ていて、以前、『人間が他人にテーマのある話をしたがるのなんて、自分を確認する行為に決まってる』と非難されたことがあったのを思い出した。
それで自分の何を確認するのか、と訊ねたら、色々だ、という雑な返しを食らったけども。
「つまり、しほさんは目がいいのに眼鏡をかけるという意味のない行動に、なんでもいいから無理やり
「野暮」
「まあ、付き合ってもいいですよ。俺は大人なんで」
「野暮野暮野暮!」
手を口元にやる。
視野。
そういえば〝正義〟を『時世の流行り廃り』みたいに云った人がいたっけ。
「見ているものが違えば、考えることも違ってくる。人が何かを考える時、純粋な論理だけで思考を組み立てることは難しくて、その脳裏には何かを体験した記憶が
「そうだね。その感覚は私にもあるかもしれない」
「〝範囲〟っていうのは〝制限〟のことです。〝視野〟というのは人間の思考を制限するものなんだと俺は思います。ただ――あえて『知ったふうなやり取り』をするのであれば――その逆に、俺は思考が〝視野〟を制限することもあるよなぁ、なんてことを思ってみることにします」
「ふむ、その心は?」
「例えば、俺の親戚たちは、しほさんのことを精神破綻した陰気な商売女呼ばわりしています」
「えっ、そうなの」
「でも、俺はそんなゴシップ大好きな共同体主義の中で、他の人間と同じようなものを目にしながら育てられてきたにも拘わらず、あなたをそんなふうに見たことはありませんでした」
やや迷って、傷付けすぎない程度の言葉を選ぶ。
「あなたはただの悪ガキです。善悪の基準がまだ自分の中にないから、『大人に怒られる』までは好き勝手をやり続ける。自制能力を持たない厄介な存在ってことですね」
「……君、私を傷つけることに躊躇がないよね」
「そうですか? オブラートには包んだつもりだったんですが」
「いや、実際、私はかなり傷付いてるよ。なんだかやるせない気持ちになってきた」
「じゃあ、更生する気持ちはあるんですか」
「ない」
「ほら、傷付いてないじゃないですか。変わることが面倒だから、相手に傷付けられた
本当に傷付いたのなら、人って変わりますよ。
僕はそう二の句を継いだ。
「ただ、その横着こそが実は『思考が〝視野〟を制限することもある』と考えた理由の一端なんです。一見すると、五感というものは外部の世界から入力される情報ですから、感度設定に違いはあれど、人によって内容に変わりはないように思える。でも、実際は違う。人は自分にとって都合のいいように無意識化で情報を取捨選択する。まるでそこに何らかの
「うーむ、『意思』……君はそれを『思考』と呼ぶのか」
「ええ。実際はもっと根本的な……『思考』とは異なる何かなのかもしれないですけどね。『入力されたことに対して〝経験〟をどう出力するかの基本設定』とでも云うか……」
「なるほどね。とりあえず君が語彙力不足だということは分かった。あと18世紀後半あたりの世界史の勉強をサボったことも」
しほさんは揶揄いたそうにしている。
小馬鹿にされるより先に、こちらが云いたいことを全部云い切ってしまおうと思って、僕は続けた。
「俺が思うに、人間にはたぶんこの種類の〝視野の制限〟ってヤツが必要不可欠なんです。自分の内側にある世界も、外側にある宇宙も、『ここ!』と居場所を決めるにはあまりに広すぎる。どんなに高名で偉そうに物を云う人間だって、最後にはきっと自分の限界を愛でながら死んでいくんですよ」
「君はなかなか過激なことを云うよね。今の君の姿をこそ、君の親戚たちに見せてやりたいよ」
「云ってるでしょう。考え方が違えば、見え方が違う。俺は親戚内では地元の有力な政治家よりも
「『僕』」
「だから、誰も『俺』を理解しようとしないのはそういう理由なんだと思います」
「ははは、いやはや、世の中は不公平だなあ。『俺』くんはちやほやされてていいね」
しほさんはまだ熱いままのココアを一口啜った。
「それで、君には私が悪ガキに見えているのに、なぜこんなふうにいつもつるんでくれるの」
「それは顔がタイプだからですね」
「ゴミかよ」
「ゴミですよ。どうやら俺の見え方はあなたと俺で共通しているみたいですね」
「…………」
しほさんは何かを考えているようだった。
怒ってはいないように見えた。
「……まあ、〝視野〟ってものについて語るならこんなところでしょうか。どうでしょう。ただの眼鏡をかける行為が感慨深いものになりそうですか」
「お眼鏡にかなった」
「やかましいわ」
補足。
シニカルな言い方はしているが、僕は別に子どもが嫌いというわけではない。
大事なことを忘れそうになった時に、あの小さな存在たちは、僕を一番基本的な視野に立ち返らせてくれる。
視野――そう、視野だ。
新鮮な驚きに満ちた光り輝く世界を、大人になってから目にすることはすごく難しい。
だから、僕は子どもを眺めて、その目に映っている世界を垣間見る行為が――嫌いなわけではない。
僕はコーヒーを一口すすった後、ミルクと砂糖を入れてスプーンでかき混ぜた。
陶器と金属の当たる音が部屋に反響する。
「まったく、頑固な人間にはなりたくないもんだなあ」
しほさんがなにやらもにょもにょと呟き始めた横で、僕は机に置かれた眼鏡を取り上げて、ぼやけた世界を覗いてみた。
こんなものをかけていたら数分後には頭痛がしてくるだろう。
「君と私は考えていることがかなり似ているなって思っていたけど、やっぱりディテールは違うみたい」
「へえ、どうしてそんなことを思うんです」
「だって、物の見え方がだいぶ違うみたいだからさ」
しほさんはレンズの向こうに自分の顔だけ写り込ませるようにしてこう云った。
ちなみにその後、僕は『あんたが云ったんじゃないですか』と返すことになる。
「――君はゴミじゃないよ。私には、一人の人間のように見える」
▲▲~了~▲▲
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