第2章 ボーイズ・デイリー・ライフ ー⑤

 黒い蜘蛛の噂。


 衣の話によるとその噂は、今から半年ほど前から聞かれ始めたらしい。

 夜に、黒い大きな、人の背ほどある蜘蛛が街を徘徊しているというものだ。


 それが一体何なのか分からない。

 その目的が何かも分からない。


 黒い蜘蛛は夜に現れ、人に見つかると、唐突に消えてしまうのだという。

 そんな目撃証言が噂となって、広まった。


 そしてある日、殺人事件が起きた。


 被害者は市内の女子高生で、その犯行はとても人間の仕業とは思えないものだったらしい。

 肩口からばっさりと切られていて、鋭利な刃物によるものではなく、まるで熊か何か――そんな強力を持った大型獣の爪で抉り取られたような傷だという。

 結局犯人は見つからず、その事件が皆の記憶から忘れ去られようとした頃、またしても似たような事件が起きた。


 ニュースはとても不可解な事件として取り上げていたが、巷ではある噂がまことしやかに囁かれていた。


 この二つの事件はあの黒い蜘蛛の仕業ではないかと。


 衣は、久鎌井の話を聞いて、もしかしてその黒い蜘蛛も白騎士と同じようなものなのではないだろうかと思ったのだ。

(俺に聞かれても分からないけど……)

 普段だったら、そんなのただの妄想や幻想と思うだけだが、自分自身が白騎士になるという不可思議な現象を体験している以上、否定できない。


 久鎌井は夕食をテーブルに並べながら、黒い蜘蛛の噂について家族に聞いてみた。

「ああ、聞いたことあるわね」

「わたしもあるよー」

 椅子に座ってお茶を飲んでいる唯奈も、久鎌井を手伝っている舞奈も、同じように頷いた。


「たしか、去年の十月頃と、今年の二月頃かな。そんな事件があったと思う」

「そうなんだ」

 久鎌井は知らなかった。普段から家事に忙しくニュースを見ていなかったし、クラスメイトや当時の部活仲間と世間話をする機会もなかった。

「どうかしたの? 友ちゃん」

 舞奈は首を傾げて兄を覗き込む

「いや、そんな噂話を他人から聞いてね」

 久鎌井は適当に誤魔化した。


(もしかして……)

 自分のように不思議な体験をしている人間がいるのならば会ってみたいとは思っていたが、黒い蜘蛛に姿を変えた誰かが殺人を犯しているというのだろうか。そう考えると、久鎌井の心の中で何かがもぞもぞと動きだしたような気がした。


 そして、夜。

 久鎌井は白騎士になっていた。



  ― * ― * ― * —



 白騎士になった久鎌井は、姿を消して街中を散策していた。


 まったく当てはなかった。もしも白騎士になれたら探索しようと思って寝る前に頭に叩き込んだ地図を頼りに、今まで行ったことのないような場所まで含め、ひたすら市内を走り回った。


 仕事終わりに一杯飲んだ後、多くの人が家路につく時間。繁華街にはまだまだ人は多い時間だ。しかし、今の久鎌井は――白騎士は姿を消しているので人に見つかることはない。


 そのとき、久鎌井は思った。

 もし、この白騎士を悪用しようとしたならば、とんでもないことになるのではないだろうか?


 白騎士には力がある。

 単純な膂力としても、普通の成人男子などはるかに凌ぐ力を持っている。

 この白騎士そのものである鎧はちょっとやそっとでは傷つかない。試すことは容易でないが、銃で撃たれても平気なのではないだろうか。

 もし、この力を使って誰かを殺そうと考えたのなら、簡単に実行することができる気がすると、久鎌井は感じていた。もちろんそんなことをしたいとは思わないが。


 しかし、もし噂の黒い蜘蛛が、この白騎士と同じような代物だとしたら。久鎌井は想像しただけでも背筋が寒くなる感覚に襲われた。

(そんなこと、許してはいけない)

 いま久鎌井を突き動かしているのはいわゆる正義感だった。


 それは彼にとっては少し懐かしい感覚だった。


 今日中に行けるところを回り、駄目であれば次の機会にも探索しよう。可能であれば明日だって。久鎌井は当然のようにそう考えていた。


 どれくらいの時間が経ったか、街にほとんど人の気配がなくなった頃、久鎌井はある公園に立ち寄った。


 そこは、久鎌井も子供の頃遊んだ記憶のある公園だった。

 子供が遊ぶには十分な、鬼ごっこや缶蹴りなんかするのに丁度良さそうな広さで、遊具もベンチも手入れされているし、街の緑化のために木や花が植えられている感じの良い公園だ。


 その公園の背の低い木の茂みから、がさがさと草葉の揺れる音がした気がした。


 久鎌井は足を止めた。

 今、風は吹いていない。


(何かがいる?)

 久鎌井は、恐る恐る音のした場所へ近づいていった。


 静かに、今も姿を消しているが、自分でも分からなくなるくらいに存在を消すように。


 そして、草葉を掻き分けて中を覗いた。


 そこには、変な生き物がいた。

 見たところ人間ではない。


 小動物だ。


 久鎌井は記憶の中でその生き物を検索した。

 普段目にするような生き物の中にそれはなかった。しかし、何かの図鑑か、テレビで見たことのある姿だった。


(これは……アルマジロだ)


 そのアルマジロが驚いた様子でこちらを見上げていた。


 久鎌井も驚いた。

 そのアルマジロは何故かサングラスをかけていたのだ。

 しかも、避暑地や海辺にあるような、背もたれが大きいビーチチェアに座り、思いっきり寛いでいた。


 そして、その傍らには見たところトロピカルな感じのジュースが置かれているのだが、さらに驚くべきことは、それらがすべて、そのアルマジロの体長にあわせた大きさであることだった。


 驚きのあまり、久鎌井は白騎士の姿をさらしてしまっていた。そしてそのアルマジロと、しばらくお互いに唖然として見詰め合っていた。


 しかし、アルマジロが唐突に動いた。


 アルマジロは久鎌井の脇を抜け、公園の外に向かって走り出したのだ。同時にアルマジロの周りにあったものが消えた。正確には消えたのではなく、周囲のものと同種の草木に形を変えていた。


「ま、待て!」

 久鎌井は思わず声をあげ、その後姿を追いかけた。

 見た目は明らかに黒い蜘蛛ではなかったし、邪悪な印象も受けなかった。しかし、それが非現実的な存在であることは明らかだった。


 アルマジロと久鎌井には圧倒的な身長差があった。いくら速いとはいえ小動物。歩幅には差があり、しばらくすると久鎌井はそれに追いついた。しかし、なかなか捕まえることができない。左右にちょこまかと動き、久鎌井の手から逃れる。


 しかし、ちょうどアルマジロが道を曲がろうと速度を落とした瞬間に久鎌井は跳び付き、捕まえることに成功した。

「あ、お、暴れるな」

 右腕で胴体を抱え、左手で腕を捕まえる。しかし、アルマジロはそれでも逃れようと暴れるために、思わず久鎌井も手に力が入ってしまった。


「痛い! 離して!」

 そのとき声が聞こえた。


「え?」

 久鎌井は驚いた。そのアルマジロは女の声を発したのだ。そして、

「いてっ!」

 アルマジロは白騎士の指に噛み付いた。

 久鎌井は思わず力を緩めてしまい、その隙にアルマジロは腕からするりと抜け出して、そのまま逃走してしまった。


「……何だったんだ、あれ?」

 それが去った道をしばし呆然と眺めた後、久鎌井はアルマジロに齧られた左指を見た。

 鎧にはくっきりと跡が残っていた。

 銃弾すら跳ね返せるんじゃないかと思った白騎士の鎧を、あの歯は傷つけたようだ。


「硬い歯だな……」

 やはり、あれもこの白騎士と同じような存在なのだろうか?

 しかし、ここで考えていても分かるはずもない。

「……行こうか」

 とりあえずその疑問は頭の端に追いやり、久鎌井は街の探索を再開した。

 結局、黒い蜘蛛は見つからなかった。


 夜空の色が少し薄くなったのを見計らって、久鎌井切り上げることにした。

 初めてこの体験をしたときは、まさに夢から覚めるように、気がつけば自室のベッドの上で寝ていたのが、慣れてくると、自分が切り上げようとか、もう休もうと思うことによって――つまり気持ち一つでその姿を消し、意識をベッドの上に戻すことが出来た。


 そうして白騎士はこの世界から姿を消した。


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