34話「揺らぐ決意」

 俺は決めたのだ。

 ミチルに真実を告げると。嘘を告白すると。そのうえで、ミチルとの約束を果たす――。

 そう決めたのだ。この決意の履行なしに、前進はあり得ない。


 俺は何度も何度も、「ねぇ、ミチル……」と口火を切り始めるのだが、「なぁに?」と純粋な瞳で見つめ返されると、着火した火はじゅわりと消えてしまうのだった。


 覚悟を固めたはずなのに……。自分の臆病さにうんざりする。

 

 久しぶりにミチルとゲームをした。テレビに向かってコントローラーをカチャカチャやり、時折歓声をあげた。

 楽しい時間を過ごしていても、不意に、ミチルに嘘を告白しなければならない、遊んでいる場合ではないという声が聞こえてきて、暗澹あんたんたる気持ちになってしまう。

 

 けっきょく嘘を告白できないまま、夜になってしまった。


「ミチル、そろそろ帰る時間かな?」


「いいえ。帰りませんよ。お母さんなんて大っ嫌いですから。私は家出したのです。家出ガールなのです」


「でも、心配してるよきっと……」


「心配なんてしていません。それに、心配していたってかまいやしません。聞いて下さい五月くん! お母さん、私のスマホを勝手に見ていたのですよ! 私、プッツンしちゃって、言いたかったけど言えなかったことを、思い切って言ってみたのです。五月くんが私の前からいなくなっちゃったのは、お母さんのせいなんでしょ?って。お母さんが五月くんに何か変なことを言ったんでしょ?って。もちろん五月くんが未来の人だってことは隠してありますから、心配しないで下さいね!

 そしたらお母さん、ぜんぜん悪びれないで、あなたのためなのよ、なんて言うのですよ! 私ボルケーノしちゃいました! 大爆発です! ゼッタイに、ゼッェェェタイに、お家には帰ってあげないのです!」


「でも……」


「それに、どうせお母さんは、今日家にいません。お仕事の帰りに、男の人のところにお泊りに決まっています。いつもそうです。昼間はほとんど寝ているから、私、お母さんとはほとんど話す機会がありません。なのに、いまさら母親ヅラして――ほんと、ほんと最低のお母さんです」


 うすうす感づいてはいたが、ミチルの母、未知子さんは水商売をしている。そう考えて間違いないだろう。


「お父さんがいなくなってしまってから、お母さんは変ってしまったのです」


 これまでミチルは、家族のことに触れられると不機嫌になる傾向があったので、俺はその手の話を控えてきた。ゆえに、ミチルに父親がいないことを知らなかった。


「お母さんは、いなくなってしまったお父さんを恨んでいます。恨んで恨んで恨んで、ついに男の人みんなを恨むようになってしまいました。お母さんは、大人の男の人が大嫌いなのです。なのに、お金のためなら平気で会って、嘘の笑顔を作るのです。お母さんは薄汚い嘘つきです。私、嘘をつく人大嫌いです」


「……そう、か」


「ですので、今日はお泊りします! いえ、ずっとお泊りします!」


「でも、未知子さ……お母さんは、俺の家を知っているよ? もしかしたら探しにくるんじゃないかな?」


「なら、薫さんの家に行きましょう! フホンイですが、私、薫さんに頭を下げます」


「でもでも、ミチルが消えてしまったら、お母さんは警察に行くかもしれないよ?」


「お母さんに限ってそんなことはないです。だって、お母さんったら、私が家出したというのに、電話一つしてこないのですよ? メールが一通きただけです。で、このメールが頭にくるのです! だって、帰って来なさいとか書いてあるんじゃなくて、五月くんを信用してはダメだって、それだけが書いてあるのですよ! お母さんは、自分の八つ当たりのタイギメーブンとして、私を利用しているのです。私のことを心配しているんじゃないのです。お母さん自身が五月くんのことを憎いだけなのです。大人の男性だから、それだけの理由で――」


 ミチル。お母さんの言っていることは、正しいんだよ。じっさい俺は、大嘘つきなんだ。


 ドゥインドゥイン……。

 畳に置いてある黒光り三号が震えだした。

 画面を見ると、知らない番号からだった。


「もしもし?」

 俺は電話に出た。


「五月さんですか? わたくしです。未知子です。恐縮ですが、ミチルの携帯を見た際、五月さんの番号を控えさせていただきました」

 

 俺は戦慄した。


「あ、はい……こんばんは……」


「そこにミチルがいますね?」


「あ、いや、その……」


「昨日に引き続き、もう一晩だけお預けします。おそらくわたくしがなんと言おうと、頑固なミチルのことです、帰ってきはしないでしょう。なので一晩だけお預けします。でも、明日の二十時までには返して下さい。それ以降は仕事がありますので――。なんとしても、家まで連れてきてください。わがままなお願いであることは承知の上です。しかし、ミチルはわたくしの子なのです。もし仮に、明日の二十時までに帰らなかった場合、警察に相談します。五月さん、あなたが、まだ幼いミチルに乱暴しようとしていると――」


「……」


「台風も近づいているみたいですしね、早めに返して下さいね。では、くれぐれも、選択をお間違えにならないよう――。ミチルが無事であることを、祈っています」


 電話が切れた。

「お母さんから、なのですね?」

 ミチルが消え入りそうな声で言った。


「うん。ミチルのことをすごく心配してるよ。帰ってあげなよ」


「嫌です」

 即答だ。


「でも、ミチル、お母さんも……」


「嫌です」


「ミチ……」


「嫌です」


 うむ。頑固一徹なり。


「分かった。じゃあ、ミチル……」


「嫌です」


「お泊まりが嫌かい?」


「え、泊まってもいいのですか?」


「明日きちんと、とりあえず一度、お家に帰ると約束してくれるなら、今日は泊まってもいいよ。ミチルのお母さんも、それなら今日は泊まってもいいって言ってたから」


「……」ミチルはふくれっ面をする。「うー……分かりました……」


 未知子さんが家にくる可能性が消滅したので、今夜は四畳半で過ごすことができる。

 すると夕飯を作る必要があるなと思い至り、俺は冷蔵庫を確認してみたが、俊吾のやつが全て食らい尽くしていた。あの女装癖大男め……。


 不覚にも、財布は薫の家に置いてきてしまっている。


「ごめんミチル。薫の家にお財布を置いてきちゃってさ。とってくるから待ってて」


「私もついていきます! 薫さんは危険な人です。五月くんを奪い取ろうとする悪女です」


 奪い取る? ああ、なるほど。俺の命を奪い取るということか。さすがはミチル。薫の内なる狂気によくぞ気づかれた。


「分かった。一緒に行こうか」


 俺たちは薫の家に向かった。

 薫はすでに帰宅していた。


「おかえり五月……あら、おこちゃまも一緒なのね」


 ミチルはムッとした表情で薫を睨み上げる。


「ご飯、できてるわよ。冷めないうちに食べちゃって」


「あ、あのさ、薫、今日は俺……」


「今日はビーフストロガノフよ」


「なん、だと……」


 俺はビーフストロガノフが三度の飯より好きだ。三度の飯がすべてビーフストロガノフだったら幸せで空も飛べるだろう。


「なんだか五月くんと薫さん、夫婦みたいです……」


「そう見える? そりゃあそうよ。夫婦みたいなものだもの」


「……」

 ミチルは俺を睨み上げる。


「薫、からかうなよ……」


「五月はね、あたしの料理が大好きなのよ。あたしは大人だから、おこちゃまにはできない料理ができるの。五月は料理が上手な女が好きなのよ」


「うー、どうせ大したことないんですもん! 私が試食します! 薫さんの腕を判断します!」


「どうぞ」


「ふん。どうせおいしくないのです!」

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