29話「泣き笑い」

「気まずくなると右手の人差し指で頬をく癖、変わってないね、五月くん。あと、てのひらにますかけ線があるのも」


 手相てそうは変わりようがないですよと思ったけど、黙っておいた。


 それにしても、瑞樹先輩は俺が結城五月であることを、癖と手相で気づいたわけか。

 昔から彼女は、人の何気ない特徴を捉えるのが得意だった。

 

 瑞樹先輩――いまでもそう呼んでいいのか分からないけど――は、アイスコーヒーとチョコチップクッキーを用意してくれた。

 俺は縮こまって「お構いなく」と言った。


「五月くんを家に入れたの、これが初めてだね」

 

 瑞樹先輩は対面の椅子に座った。マホガニー調のテーブルをへだてて、俺たちは向きあう。


「そうですね。お互い、家には遊びに行きませんでしたよね。かなでさんが、家で遊ぶの好きじゃなかったので……」


「奏さん」と瑞樹先輩は言った。「五月くんにそう呼ばれたの初めてかも」


「そうかもしれません」


「なんか落ち着かないな。ああ、べつにいやってわけじゃないけど」


「瑞樹先輩のほうがいいですかね」


「うん」瑞樹先輩は即答した。「なんか落ち着くよ、その呼び方――。えっと、そんで、ああ、そうそう、家で遊ぶのを私が嫌がったって話だったね」


 俺は頷いて、アイスコーヒーを一口飲んだ。


「いまだから言うけど」と瑞樹先輩は話し始めた。「家に入れなかったのは、親を心配させたくなかったからなんだよ。五月くんを家に呼んだら、親が心配する。だって、同級生の友達ができないから、小学生の男の子と遊んでいるって思われちゃいそうでしょう?」


「たしかに、怪訝けげんに思われそうですね。ちなみに俺の家に来るのを嫌がったのも、同じような理由ですか?」


「うん。それもある。五月くんの親に怪訝に思われちゃうからね。でも、いちばんの理由は、フェアじゃないと思ったからなんだ。私の家には入れないで、五月くんの家には入る。それって不公平だなって」


「やっぱり瑞樹先輩って変わってますよ」


「そうかもね」


 俺たちは小さく笑い合った。

 俺の体の緊張はすっかり解けていた。俺が小学生で瑞樹先輩が高校生だった当時と今この瞬間が、昨日と今日の関係にあるみたいに思えた。


「それで」と瑞樹先輩は言った。「今日は、何か大事な話があってきたんでしょ?」


「なんで分かったんですか?」

 俺は驚いて言った。


「十年ぶりに突然現れて、『なんで分かったんですか?』はないでしょ!」

 瑞樹先輩は大声で笑った。

「そーゆー天然なところ、全然変わってないね五月くん。昔のまんま。かわいいと思うよ」


 俺は顔が熱くなるのを感じた。たぶん真っ赤になっている。


「えっと」俺は気を取り直して、表情を引き締めた。「瑞樹先輩に、謝りたいと思って」


「……謝る、か。それはたぶん、告白のことだよね?」


「そうです」


 告白。

 俺は、あの時、瑞樹先輩から告白を受けたのだ。

 

 当時の記憶が蘇ってくる――。


 ――「私、五月くんのこと好きなんだ」


 あの時……俺たちが、まだ少年と少女だった頃。

 瑞樹先輩は、珍しく重々しい声でそう言ったのだった。


「えっと」と俺は言った。「俺も瑞樹先輩のこと好きですよ」


「五月くん。分かってないね。私が言う好きっていうのは……」

 

 瑞樹先輩は言葉を切って、目線を地面に落とした。


 夕暮れの公園で、俺と瑞樹先輩はしばらく無言で佇んでいた。

 だけど俺はちっとも気まずくなんてなかった。むしろ、もじもじする瑞樹先輩が新鮮で、おもしろくすらあった。


 やけに影が濃かったのを覚えている。二人の影は、やや距離をあけて平行に伸びていた。


「……恋人になって、ていう意味の好きなんだ」


「……え?」


 長い沈黙を挟んでいたので、彼女の言葉の意味をきちんと理解するのに、俺は少し時間がかかった。

 

 いや、けっきょく理解なんてできなかったのだ。

 

 だって。


「俺、小学生ですよ?」


 俺は瑞樹先輩の告白を、冗談だと思って受け流したのだから。


 俺の返事を聞いたときの彼女の表情は、いまでも鮮明に覚えている。

 瑞樹先輩は、泣き出すような、笑い出すような、とても不安定な表情をしていた。初めて見る表情だった。

 

 けっきょく、彼女は笑った。


「あはは! なーんてね。びっくりした? ねえねえ」

 

 そう言って彼女は、俺の肩を強めに小突いたのだった――。

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