9話「嘘と誠」

 しかし、と俺は思う。

 それにしてもだ。今のこの状況は、少し変だ。


「薫、どうしたの? さっきからなんか変だぞ?」


「なにが?」


「なにがって……」


 薫の両手は今、テーブルを横断して俺の右手を握りしめている。薫はアルコールが入るとこういうところがあるのだが、今回はとくに顕著だ。


「え、その、手、手だよ、手」


 俺はなんか急に恥ずかしくなってきた。


「手が何か?」


「いや、その、触ってるなぁって思って……」


「いや?」


「別にいやじゃないけど……」


「じゃあいいじゃない」


 不覚ながら、我が股間のジョニーが反応しつつある。異性に手を握られるなど、これまでの人生であっただろうか?

 いやなかった。昔は二十歳にもなれば彼女の一人や二人や三人くらいできるだろうと思っていたのだが、なってみれば現実は残酷なもので、俺の恋愛履歴書は真っ白である。


 そんな、やむにやまれぬ事情が一切ないにもかかわらず純潔じゅんけつ一途いちずに守り続けてきたような男が、美人に手を握られれば、そりゃあジョニーも元気になりますわな。ねえ?


 だが、この感情はとても危険だ。

 相手は薫なのだ。俺のことを消しゴムの角と同レベルの存在としか認識していない女性なのだ。


 今の薫は確かに魅力的だ。

 しかし今の薫は、あくまでアルコールで内なる悪魔を抑えているに過ぎない。


 と、ここで黒光り三号が着信した。


「ちょっと失礼」


 俺はこの機会に、薫に握られている右手でスマホを取り出そうとするが、恐ろしいくらいの力で拘束されて動かすことができない。

 仕方なくフリーな左手でスマホをポッケから引っ張り出し、画面に表示されている文字を見る。


 ミチルだった。


 俺は出ようかどうか迷う。

 薫の前でミチルと通話するのははばかられた。

 店の外に出ようにも、薫が俺の右手をがっちりホールドしている。俺の右手はオートメイルではないので、取り外しは不可だ。


 まぁ、電話なんだし、対面で話すわけじゃないんだし、嘘が露見することもあるまい。


 俺は電話に出た。


「もしもし? どうしたの?」


「五月くん。こんばんは」


「うん。こんばんは」


「あのね……お願いがあるのです」


「なに?」


「今日、五月くんのお家に泊めてほしいのです」


 こ、これはまさか、ロマンスな展開か……? 


 って、オイオイ、俺はロリコンじゃないんだぞ。


「どうして? 夜に出かけたらご両親が心配するでしょう?」


「今夜は、お母さんは、その、いないんです。明日の夜までいません。お父さんも、いません」


 よく分からないが、今日はミチル一人の模様。


 しばらくあれこれ話してから、


「とりあえず、分かったよ。電話じゃなんだから、直接話そうか」


「はい。ありがとうございます」


 集合場所を決め、俺は電話を切った。


「誰?」薫は、冷たくて鋭い捕食者の目で俺を睨んでいる。「誰と話してたの?」


 俺は考える。

 ミチルのもとに駆けつけなくちゃいけないが、今すぐ薫にさよならを言うわけにもいかない。

 だって、俺は待ち合わせに遅刻したうえ、飲み代を払ってもらうことになっている。

 今から「やっぱり俺が払うよ」と言って十字架を一つ減らすというのも手だが、あいにく財力が払底ふっていしている。


「ねぇ、誰なの? 黙ってたら分からないよ五月」


「……」

 俺は考える。


「いつまで黙ってるのかな?」


 ヤバい。

 薫の目が、ヤンデレキャラみたいになっている。

 

 どうする俺。


 用事ができた、なんて言って帰ろうとしたら、薫は確実に俺を許さない。粛清されてしまう。

 薫をきちんと納得させることのできる、正当な理由が必要だ。


 こうなったら仕方ない。

 怖いけど、折衷せっちゅう案でいくか。


「あのさ、薫、さん……」

 声が震える。


「おや、やっと喋ったね。なにかな?」


「前にさ、俺の親戚の女の子のこと、話したじゃん?」


「話したね」


「でさ、その子がね、今日、家に一人になっちゃうんだ。両親が出かけてて、帰って来れないんだ。それで心配した両親がその子に、俺の家に泊めてもらえって言ったそうなんだよ。子供一人でお留守番ってのは危ないだろ?」


「ふぅん」

 薫はジト目で俺を睨む。


 マズイ。嘘がバレているのか?

 いや、確かに半分嘘だが、半分は本当の話だ。胸を張れ俺。


 幼い女の子をダシに使うのは気が引けるが、こうでもしないと、戦慄すべき報復を避けることはできない。


「だから、その、今日はもう帰らなくちゃならないんだ。この埋め合わせは必ずするよ! ごめん! だからどうか恨まないでくれ!」


 薫は、俺の右手の拘束を解いて、ゆっくり頷いた。


 お、手ごたえありだ!


「じゃあさ、五月。今日はその子も一緒に、あたしの家に泊まりなよ」


「……え?」


「五月の汚い部屋に年頃の女の子を泊める気?」薫は腕を組んで、目を鋭くする。「それに確か五月、さっき、家には布団が一つしかないし、自分は布団じゃないと寝られない、そう言わなかった? まさか多感な年頃の女の子と同じ布団で寝るわけにはいかないよね? それともなにか、あたしはダメだけど、その子ならいい理由でもあるのかな?」


「い、いえ、その……。薫さんのおっしゃる通りです」


「そうと決まれば、さっさとその子を迎えにいこうか」


「……」


 ミチルと薫が顔を合わせることになってしまった……。

 マズイ。ミチルはまだ小学生だ。薫の尋問に耐えられるはずがない。


 俺がミチルを騙していることが、バレてしまう――。

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