氷林寺三房
百合香とマグショットが、やはり中国風の両開きのドアを開けると、そこは暗闇の部屋だった。
「……暗い」
百合香が呟くと、ドアは突然バタンと閉じてしまった。
「あっ!」
すると、空間の奥から男性的な声がした。
「ようこそいらっしゃいました。ここは我が主オブシディアンの間へ至る三房の最初の房、暗間房です」
「三房?」
何者かの声に、百合香は問い返した。
「さよう。三つの房を越えた先に、オブシディアン様の間がございます。そこへ至るためには、この氷林寺三つの房を攻略しなくてはなりません。まず、この暗間房では暗闇の中でこの私を…」
「暗いな」
百合香は気を高めて、全身を炎のエネルギーで包んだ。とたんに室内が黄金色に照らされ、いくつも張られた梁や柱が姿を現す。
「うん、明るい」
「こ、こ、ここでは暗闇の中で私を倒さなくてはならないのです!灯りを消しなさい!!」
やっと姿が見えた、妙に逆立った髪のような装飾の細身の拳士が百合香に抗議した。
「そんな事言われても、わたし気を高めるとこんな風に燃えて光っちゃうのよ。ガマンしてよ」
「ふざけるな!」
「何よ!暗くないと勝てないわけ!?とんだ拳法使いね、笑っちゃうわ」
「ぬぬぬ…」
マグショットは何の反応も示さず、ただ一言だけ百合香に言った。
「俺はここで観ている」
手近なテーブルに脚を組んで悠然と構えるマグショットに、細身の拳士はいよいよ憤りを見せた。
「許さん!ここまで侮辱されたその罪、おまえ達の命であがなってもらう!」
そう叫んで、細身の拳士は百合香に向かってきた。百合香は聖剣アグニシオンを胸元に収納すると、構えを取って向き合う。
「ワチャーッ!!」
「せい!!」
百合香は相手の手首を払うと、相手が向かってきた勢いをそのまま利用して、顔面に思い切り肘鉄を食らわせた。
「おぶち!!」
訳のわからない声を上げて、パンクロック頭の拳士は一歩後退する。顔面にはすでにヒビが入っており、最初から暗闇でよくわからなかった顔が、さらにわからなくなった。
「何よこれ、稽古台にもならないじゃない!」
どこかの世紀末覇者みたいな事をマグショットに向かってぼやきながら、百合香は両腕に気を込めた。
「百裂ドリブル拳!!!」
小学生男子が今考えました、といった風情の連続パンチを、百合香はパンクロック頭の拳士の頭と胴体に思い切り食らわせた。だんだん殴る快感を覚え始めた頃に、拳士は吹っ飛んで後ろの柱に激突し、そのまま床にずり落ちてピクリとも動かなくなってしまった。
「俺のせいじゃない」
マグショットは百合香の抗議に取り合う事なく、よいしょ、と床に降りるとトコトコと歩き始めた。
「行くぞ」
「次もこんな奴だったらどうしよう」
女子高生にボコボコにされた哀れな氷の拳士は、名前を名乗る事もなく、そのまま自分が預かる房に取り残されたのだった。
さらに通路を進むと、やはり同じような扉が現れた。
「また同じようなバカだったらどうしよう」
「油断は常に武人の命取りだ」
マグショットは真剣な表情で言うが、気のせいか声に緊張感がない。百合香は、ラーメン屋さんの戸を開けるようなノリで扉を開けた。
中は、いかにも道場といった風の空間である。やはりどこか中国風だ。
そこで百合香は、唐突に言った。
「思い出した!うちの学校に、少林寺拳法の部活があったんだ」
「なんだと?部活とは、たしかおまえ達の世界で言う、修練の場だな」
だいたい合っているが、どうも武人の感覚から捉えられているらしい。百合香は訊ねた。
「あなたのその拳法は、何が由来なの?氷魔の世界に拳法があるの?」
「違う。以前この世界に氷巌城が現れた時、俺はすでにレジスタンスだった。その時、中国拳法…少林拳という流派がある事を知って、俺は氷巌城のシステムを利用してその技術だけを取り込んだのだ」
「ふーん。それじゃあ…」
百合香が何か言いかけたところで、道場の奥から声がした。
「敵の領域内で世間話とは、なかなかいい度胸だ」
マグショットと若干似た、低めのトーンの声だった。仁王立ちして道場の奥に控えるその姿は、今までの敵よりは平均的な人間の容姿に近い。見ると、やはり中国風の道着をまとっていた。
「ねえマグショット、疑問なんだけど、なんで氷なのにあんな柔らかい服とか作れるわけ?地底にはカタツムリもいたよ」
「ある種の極低温エネルギーが、粒子と粒子の間をしなやかに繋いでいるのだろうな。拡大して見れば、やはり氷の粒子である事がわかる。俺のジャージもそうだ」
「ふーん」
百合香は、マグショットのジャージを引っ張ってみた。感触はまさにジャージである。
「おい!俺を無視するな!!!」
低い声の拳士は、怒りを剥き出しにして叫んだ。
「あっ、ごめん。何だっけ?」
『百合香、無視したら可哀想だよ』
しばらく声がしなかった瑠魅香が、見かねて百合香に言った。
「馬鹿にしおって!この寂空房の恐ろしさを知るがいい!」
そう拳士が言うと、拳士の姿はフッと背景に溶けるように消えてしまった。
『ははは、どうだ。空に姿を消し去った我が身を捉える事はできまい!』
部屋の奥から、盛大に声が響く。
やがて足音が、百合香の右手方向にゆっくりと移動した。
「奴の姿が見えない」
「油断するな、百合香」
マグショットは真顔で言う。緊張のためか、少し表情が引きつっていた。
足音は百合香の右側に近付いてくる。そして、空気が一瞬激しく揺れた、その瞬間だった。
「おあたぁ!!!」
百合香の爆炎を伴う蹴りが空を切ったかと思うと、見えない何かが壁に叩きつけられ、悲鳴が聞こえた。
「ぐはあっ!!」
悲鳴がした壁に、さきほど姿を消した拳士が倒れた姿で現れた。
「ば、ばかな…なぜわかった」
「わからない方がバカでしょ!!あんだけキューキュー足音鳴らしてれば!!」
「ふ…見事だ」
名も知らぬ拳士の胸部から亀裂が走る。
「ひでぷ!!!」
またしても意味不明の断末魔の叫びを上げて、拳士の身体は爆裂四散した。
「恐ろしい敵だった。笑いを堪えるのに必死だった」
「ええ。笑ったら負けだったわ」
マグショットと百合香の会話について行けない瑠魅香が、ぼそりと言った。
『ちょっと何言ってるかわかんないんだけど』
三つ目の扉を前にして、百合香は言った。
「たしか、三房って言ってたわよね、あの最初の奴」
「うむ」
「これで最後ってわけか」
百合香は、同じデザインの扉に手をかける。
「百合香、しつこいようだが油断は禁物だ。先の二体が弱かったから、三体目もそうだという保証はない」
マグショットの言葉に、百合香は頷いて慎重に扉を開けた。
中は、先程と同じような道場ふうの空間だった。特に変わったものは見当たらない。だが、マグショットは何かを感じ取ったようだった。
「気をつけろ。すでにいる」
「いるって、どこに?」
「ここだ」
「!」
百合香は、突然背後から聞こえた声に戦慄して振り返った。
「あっ!」
振り返った瞬間、相手の貫き手が百合香の首をかすめた。髪の毛が数本、その勢いで切断される。喉に受けていれば、致命傷だっただろう。
「ほう。よくかわしたな、褒めてやる」
独特のニヒルさを持った声で、その拳士は百合香と距離を置いて言った。
顔はまるで人間のそれだったが、IT企業がデモンストレーションで展示するAIロボットのような、無表情さが不気味だった。オールバックの髪型を模した頭部に、玄人ふうのチャイナスーツをまとっている。
「いつの間に背後に!?」
「違うぞ、百合香」
マグショットは、一切慌てる事なく拳士を見据えて言った。
「俺が言ったとおりだ。こいつは扉の陰にいた。ただ、それだけだ」
「でっ、でも姿は見えなかった」
「お前が見えていなかっただけだ。こいつの気配の消し方は本物だ」
そう言うと、またしてもマグショットは後ろに下がった。
「やってみろ。いい稽古台になるだろう」
「む」
マグショットの言に、拳士は少し憤慨する様子を見せた。
「なめられたものだ。この虚幻房を通れる気でいるとはな」
そう言って、拳士は道場の中央に移動した。
「来い」
言われるまま、百合香は道場に進み出て相対する。
「行くぞ」
拳士はそう言ったが、百合香は軽い混乱を感じていた。というのも、相手からまるで存在感や殺気を感じないのだ。
「(こいつは…)」
しかし、次の瞬間に拳士は一気に百合香との間合いを詰めてきた。再び、鋭い貫き手が百合香の腹部を狙う。
「うっ!」
危うくかわした百合香だったが、姿勢を崩した瞬間を敵は見逃さなかった。
「がっ!」
一瞬で横に回り込むと、百合香は背中に裏拳を喰らって前のめりになる。
まずい、と思った百合香は、機転をきかせてそのまま両腕を床に突き、相手に足払いを食らわせた。
「むっ!」
百合香の予想外の返しに驚いた拳士は、深追いせず距離を取る。
「…やるな」
「……」
百合香は、相手が距離を置いたその間に姿勢を整えた。一瞬の隙もない。格闘の素人と、プロの違いを肌身で感じていた。先刻戦ったあの二体が、まるで冗談に思える。
だが百合香もまた、やはりバスケットボールの感覚が助けになっていた。自分がボールを守っている時、あるいは奪う時、そしてブロックをかいくぐってシュートを放つ一瞬の隙を狙う、あの電光石火の応酬は、下手な格闘の試合よりも凄まじいのだ。
その様子を、マグショットは何か怪訝そうに観察していた。
「おかしい…あの拳士、何か既視感がある…」
それが何なのかわからない。すると、百合香が先手を打って回し蹴りを放った。
「む!」
マグショットは、何かその攻撃に危険を感じた。
その不安が的中したのか、百合香の蹴りは最小限の動きでかわされ、逆に胴体に思い切り当て身を喰らった。
「あがっ!!」
倒れこそしなかったが、百合香はバランスを大きく崩して後ずさる。なんとか態勢を整えて、間合いを詰めると今度は拳を繰り出した。
しかし、これもまた相手は必要最小限の動きでリーチを取り、百合香が一瞬見せた隙を突いて蹴りを放ってきた。
「うっ!」
すんでの所で直撃は避けたものの、胸部に若干のダメージがあった。
「なんだこいつ、途端に動きが良くなった…」
「(違うぞ、百合香)」
マグショットは言葉には出さず百合香を見守った。
「(それに自分自身で気付くかどうかだ。無理ならば俺が加勢するが、果たして…)」
なおも百合香は攻撃を繰り出すが、どうしても確実に当てる事ができない。なぜだろう、と百合香は思った。
その時、百合香は何かがおかしいと思った。三房と言いながら、なぜ最初の二つの房は、あり得ないほどの弱い相手しかいなかったのか。最初の房にしても、百合香が気を発するまでもなく、扉を壊してしまえば暗闇は封じる事ができた。あまりにも弱い。
「今度はこちらから行くぞ!」
拳士は、百合香に凄まじい速度の掌底を放った。
「ぐはっ!」
思い切り胸に喰らった百合香は、一瞬呼吸を封じられてしまう。その隙に、さらに蹴りが飛んできた。かわし切れず、受けた左腕に強烈な衝撃が走る。
「ぐああっ!」
強い。やはり、先ほどまでの二体とは次元が違う。次第次第に百合香の身体にダメージが蓄積されていく。
これに比べて、やはり最初の二体はあまりにも、不自然なほどに弱い。
まるで、意図的に弱い拳士を配置したかのようだ。
百合香はそこで、一人のスポーツマンとしてピンときた。
「…なんとなく、わかった」
そう言って、百合香は改めて構えを取る。
「むっ」
百合香が構えを変えた事に、マグショットは気付いた。脚の引き方が先ほどより深い。
「気付いたか」
百合香は、一見すると先ほどまでと同じように相手に接近した。しかし、百合香は蹴りを放つと見せかけて、そこで高く跳躍したのだった。
「なに!?」
「えやあぁぁ――――っ!!!」
空中で身体を一回転させ、強烈な踵落としを相手に浴びせる。その予想外の動きに対応できず、相手の拳士はぎりぎりの所で腕を組んでガードしたものの、バランスを崩して床に膝をついてしまった。
しかし百合香は、かかと落としの態勢のまま、両足で相手の首をはさんで、一気に床にひねり落すという荒技に出た。
「ぬぐう!!」
両腕をガードに用いていた拳士は受け身を取る事ができず、顔面をもろに強打して倒れ伏す。百合香は手を突いて跳ね上がり、間髪入れず構えを取った。
「ええーいっ!!」
今度は上段から垂直に蹴りを腰に入れる。そのダメージは大きかったらしかった。
「ぐわあぁ――!!」
飛び退って距離を取る百合香に対し、明らかに弱った様子で拳士はヨロヨロと立ち上がる。
「な…なぜだ」
「わかったのよ」
「む!?」
「あなた、さっきの二つの房にいた、あの二体の拳士でしょう?」
指差して百合香はズバリと言ってのけた。
すると、拳士は小さく笑い始めた。
「ふふふ…よくわかったな。…一体どうやって見破った」
「私は拳法家ではないけど、スポーツマンよ。スポーツの世界には、伝統的に”ブラフ”が存在する。相手の力を見極めるために、意図的に弱く見せる策。あなたは弱い拳士を装って、私に攻撃させ、私の間合いを学習したのよ」
「…見事だ」
拳士は、改めて拳を構える。それまでとは少し違う、拳を突き出した、気迫が感じられる構えだった。
「私はトンフー。きさまの名は」
「百合香」
「ユリカか。いいだろう、決着をつけよう」
二人の間に、無言の緊迫が走る。マグショットは黙って見ていた。
百合香は、右拳に炎の気を込める。拳が金色に輝いた。
「ハーッ!!」
先手必勝、トンフーが凄まじい速度で踏み込んでくる。しかし、百合香は逃げなかった。
「必殺!」
右手を大きく開き、力を解放する。右腕のアームガードが前面にせり出し、百合香の指をガードした。
「『ブレイジング・フィンガー―――――ッ!!!!』」
左腕でトンフーの突きを払い、その顔面に灼熱の手を叩きつける。トンフーの頭部は激しい炎に包まれた。
「バーンド・アウト!!!」
百合香の掛け声とともに、トンフーの頭部は一瞬で爆発し、残された身体はその場に背中からドサリと倒れた。それを見て、マグショットは力強く頷いた。
「見事だ、百合香。お前はすでに、己の技の何たるかを掴みかけているらしい」
「掴んだ、とは言ってくれないのね」
炎のエネルギーを収め、百合香は苦笑いした。
「当然だ。拳の道を甘く見るな」
「はいはい」
『あのー。わたしさっきから出番ないんだけど』
忘れ去られかけている瑠魅香が、もう飽きたといった口調で百合香の背後からぼやく。
「心配しなくても、そのうち嫌でも出番が来るわよ。その時は、出ずっぱりになるかもよ」
『そんな両極端なのは嫌』
「ふふふ」
百合香は、呼吸を整えると道場の奥を見た。通路に続くらしい扉が見える。
「あの奥に、あのハットの気障な拳法使いがいるのね」
「オブシディアンといったな。はたして、さっき見せたあの実力が全てなのか、それとも…」
「ブラフだった?」
「わからん」
マグショットは腕を組んで唸った。
「場合によっては、二対一で戦うぞ、百合香」
「それは、マグショットとしては納得できる戦いなの?」
「納得はしがたい。拳法家は一対一を旨とする」
しかし、とマグショットは言った。
「時には目的が優先される」
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