孤独
どれくらい眠っていたのだろう。目覚めると百合香は、真っ白な天蓋に覆われた寝台にいる事に気付いた。
疲れていたのですぐ眠りについたが、目覚めてみるとどうも落ち着かないデザインだ。ガドリエルに、リフォームを頼めるだろうか。そういえばリフォームって和製英語というか用法が間違っているらしいよな、というどうでもいい考えが浮かんだところで、百合香は眠る前になかった物が、部屋に据え付けてある事に気付いた。
椅子の形をしているが、背もたれがない。そしておなじみのフタがついていて、脇には何やら紙を巻いた器具が設置してある。
「…トイレだ」
見たままを百合香は口に出した。近寄ってフタを開けると、水がキラキラと光っている。何か、光るタッチパネルのような物もあり、触ると水が流れた。水洗だけでなくどうやら、ウォシュレット機能もあるらしい。至れり尽くせり、である。
設置場所以外は。
「落ち着かないな」
ガドリエルが用意してくれたのだろうか。確かに眠る前、「トイレが欲しい」と考えていた。
トイレそのものは完璧で、文句のつけようがない。しかし、少なくとも普通の家庭では、リビングのど真ん中に便器は据え付けないだろう。
とりあえず、誰も見ている心配はないはずなので、百合香は用を足した。設置場所は後でガドリエルにお願いしよう。
トイレを流し、泉で手を洗っている時に、百合香は寝る前と、服装に違和感がある事に気付いた。
「ん?」
そういえば、何気なくいつものように用を足したが、あの鎧をつけた状態でどうやったのだろう、と自分の姿を確認すると、なんと服装が学園の制服、それも着ていた夏服ではなく、冬用のワンピース制服になっていたのだ。そして、下着も真新しくなっている。
「そういえば私、鎧のままでベッドに入ったんだっけ」
ということは、寝ている間になぜか服装が変わったということだ。
そこで百合香はまたも問題に気付いた。
剣が見当たらない。
「!」
人間は物を探すとき、胸や尻をまさぐるのが習性であるらしい。そんなポケットに剣があるはずはないのだが、全身をまさぐったあと、寝台の周りを調べたが、どこにも剣はない。
冷や汗がにじむ。鎧と一緒に消えてしまったらしい。あれがなければこの城において、百合香は多少成績がいいだけの、単なる女子高生である。現代国語で100点を取っても、氷の怪物は道を開けてはくれない。
だが、泉に映る自分の姿を見て、百合香は「落ち着け」と自分に言い聞かせた。その時思い出したのは、あの戦斧の闘士である。彼はその体躯のとおり、落ち着いているように見えた。実際どうだったのかは知らないが。
ゆっくりと胸に手を当てて、精神を集中させる。すると、胸からピンポン玉ほどの真っ白な光が現れて、一瞬で剣の形をなした。ガドリエルいわく、その名も聖剣アグニシオンだ。女子高生がサッと取り出せる、もはやスマホと同等の聖剣である。
「…なんだ」
これでいいのか、と百合香はため息をついた。鎧を纏う方法も、同じ事だろう。すでに、自分で理解している事に百合香は自分自身ようやく気付いた。
すると、泉の中央から声がした。
『目覚めたようですね、百合香』
水が波立ち、ガドリエルの姿が泉の中央に浮かぶ。
『聖剣アグニシオンの扱いは理解できましたか』
「理解できてる事に気付いてなかったわ」
百合香は苦笑いしてみせた。
「服装が変わったのは、なぜ?」
『おそらく、あなたの無意識がそれを望んだのでしょう』
百合香は、わかったようなわからないような顔で、とりあえず頷いた。ただ、なんとなく「着替えたいな」と思っていたのは事実である。それが反映された、ということか。どうやら、トイレも同じ事らしい。
『百合香、ひとつ忠告しておきます。あの鎧を常に身につけた状態で、城内を移動するのは危険です』
ガドリエルが唐突に言うので、それはどういう事だろうと百合香は思った。身を守るためにある筈の鎧を、纏うなとは矛盾していないか。ガドリエルは答えた。
『本当の事を言えば、剣もそうなのですが…あなたの武具は、この城の理と相反するものです。すなわち、その発せられる波動が、彼らにとっては、あなた方の言葉で言う"発信機"となる可能性があるのです』
なるほど、つまり敵に居場所を察知される危険がある、ということだ。
「つまり、戦闘に入る段階まで、極力この姿で居ろ、ということね」
『そうです。あなたの力が高まれば、波動をコントロールして気取られる事なく移動する事もできるようになる筈ですが、今のあなたにそれは難しいでしょう』
そう言われて、百合香はほんの少しカンに触った。昔から負けん気が強いので、無理だと言われると意地でも達成してやる、と思ってしまう。レーダーに察知されないステルス女子高生になれというなら、なってやろうと心に決めた。
「わかった。それで」
百合香は、聖剣アグニシオンを見つめながら訊ねる。
「とりあえず体力は元に戻ったけど、ここからどう動くべきだと思う?」
遠慮なく百合香は意見を仰いだ。あの氷の魔城に関して、知らないのはガドリエルも同じである。
『まだ全容はわかりませんが、この城は大まかに、4つの層に分かれているようです。今いるのはその最下層部でしょう』
なんだか曖昧な情報だ。ようです、とかでしょう、とか言われると不安になる。
「ハッキリとはわからないのね」
『はい。ですが、わかる事もあります。彼らの放つ負のエネルギーは、上の層に行くほど強く、色濃くなっているようです』
「どういうこと?」
『大まかに言うと、上に行くほど敵はより強大なものになる、という事でしょう』
相変わらずガドリエルは、こちらが不安になる事を淡々と語る。それと対峙するのは百合香である。
『まずは、下層部から慎重に進んで行く事です。どうやら、今のところ下層部の気配は落ち着いています』
「今が出ていくチャンスってこと?」
『そうです』
百合香は、剣を構えて扉を向いた。唐突に不安が押し寄せる。また、あの暗く冷たい空間に戻るのだ。そして、間違いなく敵と戦うことになる。
バスケットの試合が始まる直前を思い出す。違うのは相手がわからない事と、自分一人で戦わなくてはならない事だ。
「そうだ、ガドリエル。出ていく前に、ひとつ質問していいかしら」
扉の前に立つ百合香が、ふいに振り向いて訊ねた。
「私に顔立ちがよく似た、黒い髪の女の子が、ときどき鏡や硝子に映るの。私に話しかけようとしてる様子もある。何かわかる?」
『私にはわかりません。ただし』
間を置いて、ガドリエルは言った。
『それが氷巌城の出現と前後して現れたのであれば、氷魔という事も考えられます。仮にそうだとしても、あなたに語りかけようとする事の意味まではわかりません』
「もし氷魔だとすれば、倒さなければならない敵、ということね」
『現時点では、これ以上私にわかる事はありません』
ガドリエルは素っ気無い。
「なるほど、わかった」
やはり、自分で確かめる以外なさそうだ。あるいは、城と関係ない心霊現象という事もあり得る。ガドリエル学園にも、それなりに怪談は伝わっている。何にせよ、正体がわからない物について、いま考えても仕方がない。
百合香は改めて呼吸を整えると、心の中でバスケット部員たちと円陣を組むイメージを浮かべる。
『ガドリエル―――ファイト!!』
よし、と百合香は頷き、振り返る事なく扉を開け、剣を携えて再び冷たい暗闇の城へと向かった。
降り立った闘技場は、誰の姿もなく静寂が支配していた。百合香が残した巨大な破壊の痕が、そのまま残っている。
ガドリエルに言われたとおり、百合香は鎧を発現させずに、剣を構えてゆっくりと移動した。剣にもエネルギーは込めない。まず、闘技場の外側に続く通路に足を踏み入れる。
通路はやはり、岩盤を掘っただけのような雑然としたものだった。足元は相変わらずの凹凸である。
そういえば、と百合香は思った。この通路の高さは4mあるかどうか、というところだ。最後に倒した、あの巨大な剣闘士が通れるとは思えない。
「あの大きいの、どうやって闘技場に来たんだろう」
そこまで呟いて、百合香は別の可能性を考えた。
あの巨大な剣闘士はひょっとして、最初からあの闘技場にいたのではないか?
ガドリエルは、この城が「創造された」と言っていた。つまり、魔物の配置も最初から決まっていた、という事もあり得る。あたかも、要衝を守る番人のようにも百合香には思えた。
ということは、この先にもあの氷の巨人と同じような、「番人」がいる事も考えられる。城に主がいるのであれば、雑兵との間を管理する、幹部クラスの存在がいてもおかしくない。さっき倒したあの巨人は、そういう存在だったのではないか。
そんな事を考えつつ、静まりかえった通路を進んで行くと、何かザッ、ザッという地面を擦るような音が聞こえた。とたんに身構える百合香だったが、こちらに近付いてくる気配はない。
すると今度は、何か布が風にはためくような音も聞こえた。風が強い日の、庭に干したシーツのような。
そして次の音で、百合香はその音源の正体が何となくわかった。
「コェェェ――ッ!!」
暗く、鈍い青紫に光る通路に、不快な金切り声が響く。
これは、鳥の声だ。それも、相当大きな。以前に図鑑で見た、比較的近代に絶滅した何とかという巨大な怪鳥を百合香は連想した。
百合香は立ち止まる。たぶん戦闘になるのだろう。それはもう覚悟の上である。
問題は、ここまで戦ってきた相手は、大小はあっても同じような人形だった事だ。しかし、この城が「何でもあり」なのであれば、鳥や動物がいたって不思議はない。
どうするか。声は、通路の奥から聞こえてくる。一本道であり、他に迂回できるルートはない。
戦わざるを得ない。
百合香は覚悟を決め、剣をしっかりと握って通路を奥に進んだ。
先刻戦った闘技場とさほど変わらない広さの空間に、百合香は出た。氷を切り出しただけの空間であり、装飾などは一切ない。
しかし、さっき羽音や声がしたわりには、何もいないことを百合香は訝しんだ。この広間ではないということか。
だが足元に落ちているものを見て、百合香は間違いに気付いた。
鳥の羽根が落ちている。キラキラと光っていて、見たこともないほど美しい。これもまさか、氷でできているのか。
とっさに、百合香は上を警戒した。床にいないということは―――
「コェェェ―――――!!!」
「!」
百合香は、瞬間的にその場を飛び退いて、迷わず鎧を纏った。胸から吹き出した紅蓮の炎が百合香の全身を包み、黒いアンダーガードや、胴体や関節を保護するパーツを形成していく。前回なかったアンダーガードのおかげで、肌の露出は多少抑えられたらしい。
空間の上方から、巨大な影がホールの真ん中にドスンと降り立った。
百合香が想像したとおり、それは巨大な鳥だった。キジがトレーニングジムで半年鍛えたような姿をしている。問題は、その大きさだった。
「―――サギだ」
サギ、とは鳥の名前を言ったのではなく、もはやインチキレベルの相手の大きさに対する、女子高生の不平の訴えである。
百合香の眼前にいるのは、さっき戦ったあの巨大な剣闘士よりも大きな巨鳥だった。鳥というか、翼竜の親戚といった方が早い。
「こんなのと戦えっていうの」
いや、待て。まだ敵と決まったわけではない。案外、すんなり通してくれるのではないか。そんな無謀な期待を込めて、百合香は壁伝いに移動を試みた。
しかし、百合香の期待はせいぜい3秒で打ち砕かれた。ジムで鍛えた巨大キジは、その嘴を百合香めがけて打ち下ろしてきたのだ。
「わあ!!!」
すんでの所で、百合香は後方に回避できた。もし鎧を纏って身体能力が上がっていなければ、今頃鳥のエサになっていただろう。
仕方ない、と百合香は着地して、改めて剣を構える。しかし、相手が翼を広げるとさらに巨大に見えた。
これまでの相手は人間の形をしていたので、動きがそれなりに予測できる。しかし、相手は鳥である。動物の動きは予測ができない。初めて対戦する学校との試合の緊張感に似ている。
対策を考える余裕もなく、巨鳥は再び百合香を嘴で狙ってきた。スピードが違うし、首のリーチも長い。百合香は全力で回避した。
「はっ!」
避ける百合香に、相手は何度も嘴を向けてくる。あまり考えはなさそうだ。しかし、逆にそれが怖い。
巨鳥は、今度は翼をはためかせて飛び上がった。いま気付いたが、この空間は上に向かって伸びているようだ。暗闇のせいで、どこまで高いのかわからない。
巨鳥の羽ばたきは、ホール内に暴風を巻き起こした。
「きゃああ!!!」
衝撃波のような暴風で、床面に散乱していた氷の破片が百合香に襲いかかる。鎧の持つ不思議なエネルギー膜のおかげで直接のダメージはないが、膜を通して伝わる衝撃で、百合香は弾き飛ばされた。
「あうっ!」
後頭部や背中をしたたかに壁面に打ち付け、百合香の身体は床に投げ出された。普通ならすでに骨折しているだろう。
「うっ…」
痛む身体をなんとか持ち上げると、暴風に耐えながら百合香は剣を拾い上げた。
強い。そして知能レベルとは関係なく、何をするかわからない相手に百合香は恐怖を覚えていた。
百合香にダメージが及んだのを見て取った巨鳥は、羽を下ろして床面に降りた。首をひねるようにして、百合香に迫ってくる。素早さが今までの相手と段違いなので、迂闊に懐に飛び込む事ができない。かといって飛び上がれば、空中戦で鳥にかなうわけがない。
このままでは、攻撃するスキがない。そこで百合香は、戦法を変えることにした。
「こっちよ!来なさい!」
相手を誘うように動いて、百合香は後退した。氷の巨鳥は突っ込んでくる。脚の移動速度も速いのは、若干想定外だった。
それでも百合香は構わず全力で後退する。なおも巨鳥は追ってくる。
しかし、次の瞬間、唐突に巨鳥の動きは止まった。
「やった!」
巨鳥の前半身は、百合香が誘い込んだ通路にガッチリとはまってしまったのだ。知能がなさそうなのを利用して成功した作戦に、百合香はガッツポーズを取った。
「江藤百合香、やればできる子!」
意味不明のワードを叫ぶと、百合香は聖剣アグニシオンを、後ろに矢を引くように水平に構える。
「グァ―――!!!」
巨鳥は、はまった身体を引き抜こうともがいた。通路に、咆哮の衝撃波が走る。しかし、百合香は踏ん張ってそのスキを逃さない。聖剣アグニシオンに、真紅のエネルギーが凝縮されていった。
『メテオライト・ペネトレーション!!!』
剣身に満ちた炎のエネルギーを、百合香は剣をまっすぐに突き出し、対空ミサイルのごとく巨鳥の首めがけて打ち出した。
隕石なのに下から打ち上げるのはネーミングとしてどうなのか、と自問する間もなく、巨鳥の首は剣のエネルギーに貫かれ、凝固したシャーベットのように根本からその場に砕け落ちた。
例によって、敵がまだ動かないか不安な百合香は、聖剣の先でチョンチョンと倒れた身体を突っついた。ダンジョン攻略ゲームの主人公の大男がやったら絵的に締まらないが、こっちはただの女子高生である。
「ふうー」
相手が全く動かない事を確認すると、百合香はその場にへたり込んで、安堵のため息をついた。
背中を打ち付けたダメージが若干残っているものの、そこまで深刻なものではなさそうだ。鎧の防御力に感謝しつつ、再び百合香はその装備を解除し、もとの制服姿に戻った。
通路をふさいだ鳥の脇をどうにかくぐり抜けると、百合香はホールの天井を仰ぐ。高い。ひょっとして、城の上層まで突き抜けているのではないか。だとしても、今の百合香にこんな高さを登る手段はない。
見ると、やはり入ってきた通路の反対側には、また通路が見えた。だいぶ移動してきたので、いいかげん城の端まで来たのではと思っていたが、予想よりもさらに巨大な城らしい。
突然百合香は、たった独りで戦う事の頼りなさを感じて、その場に立ち尽くした。
今までは、バスケットのチームで戦ってきた。自分が優れていようとも、結局はチームがまとまっていたからこそ、それなりに勝利を収める事ができた。
チームプレイに慣れていた少女が、とつぜん独りで巨大な城に立ち向かう事を強いられているのだ。仲間とは、本当にありがたいものなのだと百合香は実感していた。
たった一人だけでもいい、仲間がいてくれたらどんなに心強いだろう、百合香はそう思った。眼の前には、冷たい闇の通路が無言で続いていた。
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