絶対零度女学園

塚原春海

氷巌城突入篇

プロローグ

 私は、熱を失った。


 古びた体育館に響く、シューズの擦れる音。弾むボールの音。ぶつかる肩、足と汗の匂い。パスを求める南先輩の声。南先輩の揺れるショートヘア。南先輩の頬を伝って落ちる汗。


 全てがもう、遠い日の幻に思えた。


 幻なら、その方がいい。現実だというなら、私のこれまでやってきた事は何だったというのか。私はこれから、どうなるのか。


 それとも、私にはまだ、熱が残されているのだろうか。



絶対零度女学園

-プロローグ-



 それが起きたのは、梅雨が明けて期末考査が終わり、少女たちが起こりもしない夏休みのロマンスを思い描いている頃の事だった。


 先に断っておくと、その事件の被害に遭った三人には大変申し訳ない事ながら、私はその時自分の心を宥めることに全精力を注ぎ込んでおり、他の生徒と同様に同情を寄せていた、と言い切れる自信はない。ごめん。


 

 私の通う女子高は、私立ガドリエル女学園という。市街地から微妙に外れた山の間にあり、駅まで遠いとも近いとも言えない、バスで通うにも同様の、もう少しだけマシな場所に建てられなかったのか、という立地である。

 にもかかわらず、制服が古風なワンピースで可愛いとか、それなりに進学率、就職率が安定しているとかの理由で、一定の人気はあった。


 私が入学した理由?あとで話す(今は話したくない)。


 ともかく、それはある日の放課後に起きた。それが知れ渡った切っ掛けは、どの字を持ってくれば表記できるのか悩むような、生徒の絶叫であった。


「◆◆◆◆◆――――!!!!!」


 おそらく全国の中学・高校でおなじみの、放課後のブラバンの演奏をシャットアウトするかのように、金切り声が響き渡る。

 ブラバンや軽音楽部など一部例外を除いて、あらかたの部活動や委員会の生徒、教師、用務員たちが、その絶叫の中心地と思われる聖堂に集まってきた。一番最初に来なければならない警備員が、一番遅れて到着したのは言わないでおく。


  

 聖堂の前に集まったほぼ全員が、絶句していた。

 聖堂の前庭には、ささやかながらちょっとしたバラ園がある。そのバラの植え込みの通路に、園芸鋏を持った生徒が三人、倒れていた。

 すぐさま駆け寄って安否を確認すべきだと誰もが思ったものの、それを阻む光景が目の前にはあった。


 凍結している。


 芝生が、バラが、そして倒れた生徒が。傍目に見てもそうだとわかる。その異常な光景に、誰もが行動に移るのをためらった。

 しかし、さすがに絶句ばかりしてもいられない。数名の保健委員が倒れている生徒に駆け寄って、肩を揺すった。

「ちょっと、大丈夫!?」

 そうして、肩や腰に手を当てた生徒が声を出してその手を引っ込めた。

「ひっ!」

 その生徒の反応に、見守っていた全員がつられて仰け反った。

 そこで、警備員が生徒を押しのけて倒れている生徒の容態を確認した。遅れて到着しても、そこはさすがにプロである。

 警備員は即座に無線を取り出して、救急車の手配をした。そして振り向くと、

「お湯とタオルを早く!大量に!」

 と、生徒や教師に向かって叫び、自身は上着を脱いで、生徒の上半身に抱き着いた。そこだけ見れば警察を呼ぶべき光景だが、生徒の冷えた身体を温めるための行動だという事はその場の誰もが理解した。


 かくして突然フル稼働を強いられたガス給湯器から、保温ポットやバケツにお湯が溜められ、救急車の到着まで、凍結して倒れていた生徒三名の看護が行われた。


 仔細を解説しても仕方ないのでかいつまんで言うと、化学の先生いわく、倒れていた生徒たちは「突然局所的に起こった原因不明の氷結現象によって、極度の低体温にさせられた」のだそうだ。

 運ばれた病院からの連絡では、一命は取り留めたものの、あと一歩で命を落とす非常に危険な状態だったという。



 以上のあらましを私が聞いたのは、翌日登校してからだった。その様子を見ていたというクラスメイトは、興奮して私に説明した。倒れていたのは環境整備委員との事で、植え込みのバラはその「寒波」で全滅したという。

 化学の先生いわく、そんな現象がせいぜい数メートルの範囲で起こるなどあり得ないらしかった。しかも今は、もうじき夏が本番という時期である。


 以上の出来事を聞いて、私もそれなりには驚いた。しかし、それ以上の感情は特になかった、というのが正直な所である。


「反応薄くない?」

 ひとしきり説明を終えた、クラスメイトの吉沢さんは眼鏡の奥から私を見た。

「ごめんなさい。驚いて言葉が出ないの」

「そっか。そうだよね」

 咄嗟に取り繕ったが、吉沢さんは納得してくれたようである。

「でも、百合香だっていたんでしょ、体育館に―――あっ」

 そこまで言って、吉沢さんは口をつぐむ。

「ご、ごめんなさい」

 本当に申し訳なさそうに頭を下げる吉沢さんに、私は笑って答えた。

「気にしないで」

「ごめんなさい」

「大丈夫だから。気にしないで」

 私は、本当にそう思っただけの言葉を繰り返して伝えた。

 

 昼休み、自販機にコーヒーを買いに渡り廊下を歩いていると、向こうから三年生の二人組が歩いてきた。一人は、ゆるい天然のウェーブがかった髪が特徴的で、何度も会っているけれど名前を知らない先輩。そしてもう一人は。

「百合香」

 そう私を呼ぶ、ショートカットで切れ長の涼し気な目をした相変わらずの美人は、榴ヶ岡南先輩だった。

「今日は大丈夫なの」

 そう言って私の前に立ち止まると、南先輩はクラスメイトらしき人に「先に行ってて」と伝えた。その人が立ち去るのを待って私は答える。

「はい。ふつうに生活する分には、特に不自由はありませんから」

「…お医者様は何て言ってるの」

 言葉を詰まらせながらも、先輩はストレートに訊いてくる。私は答える。

「肺が良くならないうちは、激しい運動は厳禁だそうです」

「…そう」

 何とも言えない落胆の表情を、先輩は私に向けた。それは有り難くもあり、辛くもあった。

「治る見込みがないわけではないそうです。でも」

 そこまで言って、私は言葉を詰まらせながら、頑張って続ける。

「…何にしても時間はかかる、と」

 それを聞く先輩も辛いのはわかった。先輩と同じ時間を僅かでも共有できる事が私には嬉しい事でもあり、今はまた辛い事でもある。

「わかった」

 それだけ言うと、先輩は私の肩をポンと叩いた。

「百合香。無茶苦茶言うな、って怒鳴ってもいいから、これだけ言わせて」

 先輩が、グレーがかった透き通った目を私に真っ直ぐ向ける。

「たとえこの夏の大会が絶望的だとしても、私はあなたにバスケットをやめて欲しくない。必ず治して、コートに戻ってきて」

 それだけを言うと、南先輩はコンクリート打ちの床を鳴らして、足早にその場を通り過ぎて行った。

 取り残された私は、まだ先輩の手の熱さが残る肩を触って、ひとり呟いた。

「…無茶苦茶言うんだから」

 苦い笑みを浮かべて、私は再びコーヒーを買いに自販機へと向かった。

 

 その時、渡り廊下の西側の窓に、ひとつの人影が映ったように思った。私と同じくらい、髪の長い人だ。服装はよくわからない。

 振り向くと、そこには誰もいなかった。

「気のせいか」

 あるいは、自分が映ったのを他の誰かだと勘違いしたのだろう。


 誰もいなくなった渡り廊下に、私の足音だけが静かに響いた。

 

 私は―――江藤百合香は、再び歩き出す。


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