第一章 Wild bunch(6)

    6


 背筋がひりつく。痺れた吐き気を胃に感じながら、その男から目が離せない。

 車輪も汽笛も、乗客のどよめきさえ背景と化した視界のど真ん中に、男は禍々しく佇んでいた。一秒たりと合わせていられないような歪んだ瞳が、こちらを向く。

「ようやく会えたな。癌細胞ドローキャンサー。一応は同族だ。礼儀として名乗りおこう。騎士団守護士第二列セカンドガーズ、アイゼルレッド=グラキエルだ」

 暗く重々しい自己紹介を聞いた途端、クロニカはびくりと肩を震わせて。

「伏せてっ!」

 切迫した叫びが車内に響いた。傍にいた俺は、強引に袖を引かれて従わされた、直後。

「……臭いと言ったぞ。平民にんげんどもが」

 グラキエル、そう名乗った男の身体が内側から沸騰したように蠢いた。そして鋭く、空気を引き裂くような破裂音とともに、何かが彼の上半身から射出される。

 食堂車の壁に、窓に、そして乗客たちへ無差別に突き刺さったそれらの正体は、針。

 血のように赤い、細く尖った棘状の針が、まるで乱暴な釘打ちのように、乗客たちを壁に叩きつけながらメチャクチャにはりつけていた。

「なっ……!」

 頭上を掠めて、壁に突き立った棘針の震動がビリビリと頭蓋に伝わった。恐怖が息を止める。理解が追い付かない。尻餅をついたまま、膝が震えて立ち上がれない。

 惨劇の中心で直立したグラキエルが、俺ではなくクロニカを見下ろしながら言った。

「よく避けたな。心を見たのか? いいぞ。その調子で死なぬようにしろ。殺すなと言われているが、努力するのはお前の義務だ。間違っても、オレに気を遣わせるなよ」

「随分と、傲慢な言い草ね」

 咄嗟に盾にしていたのか、トゲだらけのトランクの陰から、少女はゆっくりと立ち上がった。そして片目を閉ざした強い嫌悪と警戒が、グラキエルと名乗った男を睨む。

「騎士団の貴族……初めて会うけれど、手段を選ぶつもりは無いみたいね。そんなに私が欲しいの? 変質者さん」

 挑発的なクロニカの口ぶりに対して、不気味に瘦せこけた頬は、なぜか憐憫に歪んだ。

「その口ぶり。やはり聞いていた通りらしいな、癌細胞ドローキャンサー

 まるで、いくばくもない病人を哀れむような声は、しかし悪意と侮蔑に満ちていた。

「憶えていないのだろう。所詮お前は、束の間の癌細胞だ」

 その言葉が、少女の内の一体何に触れたのか、俺は咄嗟の事で分からなかった。

 しかし確かに、怒ったように白銀と紅紫の髪が揺らめいた。そして心を見抜き狂わせる、開眼した紫水晶アメジストが男を睨んで――。

「無駄だ」

「ッ、ぁ――!」

 瞬間、クロニカは弾かれたように左眼を押さえ、背後へたたらを踏んだ。

「確かに貴様の眼は厄介だが、それも平民ヒューマンに限った話。因子を保持する貴族われらならば、干渉を弾くなど容易いことだ……くく、背信の報いだな」

 軋るような嘲笑を浮かべるグラキエル。言葉の意味はともかくとして、俺は悟った。

 この男には、クロニカの左眼が通じないのだ。心は読めるようだが、俺やあの哀れな三人にしたような頭の中身への操作は、理屈は知らないが不可能らしい。

 冷たい泥水のような絶望が、不意に喉元にせり上がった。

 この貴族バケモノは、前の駅でクロニカを待ち構えていたに違いない。それがどういう冗談か、走る列車に追いつき、直接乗りこんで来たのだ。

「しかし、余計な手間を取らせてくれたな……ああ、全く不愉快だ。貴様の無駄なあがきのせいで、この俺がっ! こんな不潔な場所に! 足を踏み入れる羽目になるとは!」

 ぶつぶつと苛立つグラキエルの体から、呪われた枝のように棘が伸びていく。呼応するように濃さを増す血錆びた気配が、覆しがたい事実として鼻をついた。

 それは決して誤魔化せない、その人間の背骨に刻まれ、血を介して全身を巡り、皮膚から発散される特有の雰囲気。魂に染み付いた、殺人者の経験値に他ならない。

 はっとして振り返った先、左眼をおさえた指の間から、赤い血を流すクロニカが見えた。

 俺は、ただの詐欺師だ。人の心はいくらでも誤魔化せるが、現実相手にそうはいかない。

 だからもう、俺にはどうしようもない。少女を見捨てて、この場から逃げる以外には。

 そこまで考えたその瞬間、不意に、死臭立ち込める空気を鋭利な音が切り裂いた。

 二発、続いて三発。その標的は、俺ではなかった。

 小さな身体が、無慈悲な棘針に連続で貫かれる。細い喉笛に刺さった赤い凶器が、奇妙に遅い視界にはっきりと見えて、血濡れた紫苑と目が合った。

 すべては、一瞬の事。無造作に蹴散らされた花のように、少女の体が倒れていく。

 そこに在った命が、散っていく。生と死に挟まれた、決定的な刹那に。

 いまだこちらを見つめている。その左眼は、一体、俺に何を伝えようと――。

「――――ッ‼」

 瞬間、震えていた足がついに動いた。と同時、半ば無意識に、懐から銃を抜き放つ。

 先刻の三人から、念のため弾薬諸共スリ取っておいた拳銃だ。引き金をためらう理由はない。幸いにも発砲した三発は過たず、グラキエルの胴体に命中した。

 枯れ木のような体が着弾の衝撃に大きく仰け反った。その結果に背を向けて、倒れたクロニカを強引に抱き寄せ、俺は先頭側の貫通扉へ向け走り出す。

 不安なほどに軽い体重を引きずりながら、振り返らずに弾倉を撃ち尽くす。そのまま扉までの数歩の車内を、かつてないほどの全力で駆け抜けた。

 そして扉に手をかけた瞬間、後ろから、空気を裂くような発射音が響いた。

 間一髪。背後に閉めた扉が穴だらけになるのを、気にかける余裕は毛ほどもない。

 動かないクロニカを抱えたまま、俺は前方の車両へみっともなく転がり込んだ。

 三両にまたがるそこもまた食堂車だった。まばらな乗客はけげんな顔をこちらに向けて、それから気付いたように悲鳴を上げるが、言い訳も警告もしている暇はない。

 俺は彼らを突き飛ばすようにこじ開けて、さらに前方へと走り抜ける。

「お、お客様! 一体何が――」

 血相を変えて駆け寄ってきた乗務員の眉間に、棘針が突き立った。

 巻き起こる悲鳴と絶叫の中、背後から、何かを踏みにじるような靴音が木霊する。

「喚くな、鳴くな。臭いんだよ平民ヒューマンどもが。ああ、ああ! とても耐えられん。掃除が必要だ」

 そして、搔きむしるがごとき神経質なその叫びが、惨劇の合図となった。

 弓兵の一斉射のような棘の雨が、乗客たちを次々と壁や座席に縫い留めていく。ほとんど無座別の攻撃は、衝動的な殺意の発露以外の何ものでもなかった。

「クソ、がッ!」

 咄嗟に、目の前の死体を背中にしょって盾にする。しかし防ぎきれなかった針が腕とふくらはぎに容赦なく突き刺さった。

 まるで、灼けた金属を流し込まれたような苦痛だった。線路のカーブに沿って車両が傾き、足を滑らせ、抱きしめた少女を落としそうになるのを必死で堪える。

 そして次の車両へ移る。もう乗客の反応になど、脇目も振らずに駆け抜ける。

 痛みよりも、背後から迫る脅威の存在が脳髄を激しく焦がした。グラキエル。弾をぶち込んでも死なない、貴血因子レガリアを宿した貴族。クロニカの身柄を狙っているという騎士団の一員。そして何より、とても話が通じるような輩ではなかった。

 緊迫と焦燥が鼓動を早くする。どうすればいい。このまま進んでも行き止まりだ。ならば、いっそ飛び降りるべきか。衝動的な思い付きをすぐさま却下した。仮に無事だったとしても意味は無い。相手は走行中の列車に追いついてくるような理不尽なのだから。

 それより、そもそもライナス、お前は一体何をしている? そいつはもう死んでるから、さっさと捨てろよ。お前一人なら、奴はもしかしたら追って来ないかもしれないだろ。

「ハァ、……はあ、畜生……! がっ、ぁ⁉ ァアアアッ‼」

 瞬間、見えない出口を求めて迷走していた思考に、爆発的な激痛が叩き込まれた。これまでとは比にならぬ、骨の髄を直にヤスリで削られているような衝撃に、とても立っていられない。倒れた拍子にクロニカを取り落とすが、気にする余裕は一切なかった。手足に刺さった棘針が発火したように、猛烈な苦痛を肉体の奥へとねじ込んでくる。

「何、だっ……! こりゃ、ぁっ……‼」

 押し寄せる痛みが喉を詰まらせて息が出来ない。床から伝わるレールの震動が激痛をさらに加速させる。つまり俺は瀕死の芋虫めいて、車両の間でもがくのが精一杯。

「畜、生っ……」

 間もなく、横倒しになった世界が霞んでいく。意識が、急速に遠のいていく。

 そして視界の端に一瞬、ゆらめくような紫の光を見て、そこで全てが闇に包まれた。

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