問題編①
群馬県N郡の山間部に位置する
本邸は蔦藪氏の没後、しばらくは所有者不在であったが、十年ほど前に資産家の
この村には、古くから語り継がれている毒龍の伝承がある。
村の西側の湖に、極めて邪悪な性格の毒龍が棲んでいた。機嫌を損ねると火炎を吐きながら村中を暴れ回り、天災や水害、飢饉を起こして人々を恐怖に陥れていた。困った村人たちは、毒龍の怒りを鎮めようと、毎年一人ずつ年頃の若い娘を生贄に捧げたが、毒龍の災いは鎮まるどころか、一向に収まる気配を見せなかった。ある時、地方行脚をしていた高僧が村を訪れ、毒龍と対峙した。僧侶の並外れた法力を前に、毒龍もついには降伏したとされている。
現在では土地の守り神として祀られているが、大昔から慶棈村周辺は「忌み地」として避けられてきた。長年、旧蔦藪邸に買い手がつかなかったのも、このためである。生贄の風習が、ほんの数十年前まで続いていたとする研究者もいるが、いまとなっては毒龍のみぞ知るところである。
その曰く付きの屋敷は、忌まわしき伝承を揶揄して、「毒龍邸」と呼ばれるようになった。
*
「お腹の子の父親を、探して欲しいんです」
「なんだって?」
帝都大学文学部史学科考古学研究室を訪ねてきたのは、ゼミの三年生、
この部屋の番人である虎井戸零十は、つい先日、教授に就任したばかりであった。痩身の体躯で、ボサボサの髪をセンターで分け、堀が深く、目は落ち窪んでいる。鼻の下と鋭い顎の先に蓄えられた口髭は、わずかに整えられていた。「折り入って相談がある」と学生から言われ、何事かと色めき立っていたわけである。
入室してからしばらく、何やら言い出しづらそうに、香坂奈穂はもじもじしていた。まあ、まずは一服しないかと、零十はインスタントコーヒーを勧めたのだが、丁重に断られたところだった。
すると彼女は、開口一番、とんでもない爆弾をこの狭い部屋に放り込んできたのである。
「あ、ごめんなさい。説明が下手で。私の親友の話なんです」
「おいおい、おどかさないでくれよ。それを先に言ってくれ」
研究室は、うずたかく積み上げられた研究書や書類の山で溢れ返り、壁の棚には化石や標本の類がずらりと並んでいる。二人は小さなテーブルを挟んで、両側のソファに座って向かい合っていた。
「私の地元、群馬の田舎の方なんですけど、親友がいるんです。お父さんが資産家で、おっきいお屋敷があって、今度そこで、その子の誕生日パーティがあるんです。私も招待されたんですけど、久々に連絡を取ったら、彼女、妙な事を言い出して……」
「妙な事?」
「妊娠したかもしれないって……でも、相手の男性は誰なのか、絶対教えてくれないんです。しかも……」
「しかも?」
「……毒龍の呪いの仕業だ、って言うんです。ずっとその一点張りで」
「毒龍……? なんだいそれは」
「村に昔から残っている伝承です。毒龍っていう悪い怪物が、女の子を連れ去って悪さをするんです」
「民間伝承だったら、知り合いに詳しい教授がいるから、ぜひ紹介……」
「実はそのお屋敷で、以前に女性が二人も亡くなっていて……彼女は、次は自分なんじゃないかって言ってて、私心配で……」
零十は面倒な相談を受けてしまったと、内心思いながらコーヒーを啜った。
「教授は、これまでにもいろんな怪事件に遭遇されて、その度に解決なされてますよね」
「うん、まあ……えっと、そんなもんだな」
「お願いです、先生しか相談できる人がいなくて」
香坂奈穂は、上目遣いで零十を見つめてくる。
飲み会の席に遅れてやって来て、後から場をかき乱すタイプだな、と全く関係のないことを、虎井戸零十は考えていた。
「群馬か」零十はマグカップをテーブルに置く。「浪漫があっていいじゃないか」
切り立った山脈の先から、積乱雲が迫っている。あれが大質量の水蒸気だとは、到底信じがたいほどに、巨大な白の塊が空に浮かんでいる。
虎井戸零十の運転する愛車は、長いトンネルを抜けた。冷房の効きが悪く、うだるような熱気に、零十はワイシャツの襟元を仰いでいる。
助手席では、
「それで、引き受けちゃったんですか」
「ああ、もちろんだ。僕は女性に対しては、常に紳士でありたいからね」
「民俗学は専門じゃないんでしょ」
「所詮は男女の色恋沙汰だ。その点では僕の専門分野といえる。地道に証拠をかき集めて、推論を立て、鮮やかに謎を解き明かす。考古学の調査と探偵業は実によく似ているんだよ、日比谷君」
「何が、浪漫、ですか。ただ若い子にいい顔したいだけでしょ」
日比谷美琴は呆れたように窓の外を見る。丸顔に銀縁の丸眼鏡、重たい前髪に鎖骨まであるウェーブがかった黒髪。肌は、そのまま透き通ってしまうほど、病的なまでに白い。都内で会社員として働く彼女は、普段はフォーマルスーツだが、今日ばかりは、ノースリーブに薄手のロングスカートといった、夏使用の出で立ちだった。
零十が、たまった有休を温泉で消化しないか、と電話で呼んだら、すぐに食い付いてきた。これまで解決に導いてきた怪事件の数々は、ほとんどが日比谷美琴の聡明な洞察力によるものであった。
舗装されていない道に差し掛かった。「落石注意」の標識を過ぎると、左手に大きな湖が現れた。
「ちょっと顔を出すだけさ。今回は、あくまでフィールドワークのついでだ。この辺りを掘れば、土器やら出土品やらがごろごろ見つかるはずだよ」
「急に群馬の山奥なんて、死体でも埋めに行くのかと思いましたよ」
「偏見が過ぎるな。馬に乗った部族に追いかけられて、弓矢で射抜かれるぞ」
小型のクラシックカーは、蛇行した山道を進む。
遠くで、かすかに雷鳴が聞こえた。
豪勢な門をくぐると、足元に飛び石が続いており、よく手入れの行き届いた庭の先に、屋敷の玄関があった。「毒龍邸」とは名ばかりの、案外、質素な外観の、ごくありふれた平屋の日本家屋である。屋敷の敷地面積はかなり広いようだ。
使用人らしき女性が、二人を出迎えた。
「虎井戸零十様ですね。香坂様から伺っております。そちらの方は……?」
「彼女は、まあ……助手です」
「温泉は、どこに行けば入れますか?」
「おい」
玄関の正面には、額縁に入れられた大判の絵画が飾られていた。雄大な山々の自然と、それに囲まれた湖を俯瞰して描かれたものだった。
「こちらは、どなたが描かれたんでしょうか」
「主人である耕三郎様のお嬢様、
「龍神湖ですよね。ここへ来る道中で見えました。素晴らしい絵だ」
「あのー、これって、どこの場所から見た絵なんですか」
美琴は絵画に鼻先を近づけて首をかしげる。
「鳥瞰図の技法を知らないのか、日比谷君。馬鹿にされるぞ」
こちらです、と使用人の
「あ、零十教授! いらしてくださったんですね」
パーティの準備を手伝っていたであろう、香坂奈穂がひょこっと姿を見せた。その背後から、杖を突いた初老の男性が現れた。
「あなたが虎井戸さんですか、いやあ、お噂はかねがね。ええと、お隣は……?」
「虎井戸の助手です。日比谷と申します。お見知り置きを」
美琴も助手で押し通すことに決めたようだ。
「足が悪くてね、こんなのだから何もお構いできませんで」
「いえいえ、とんでもない。お会いできて光栄です、大槻先生」
柔和な笑みを浮かべる大槻耕三郎は、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。
「娘が先生の大ファンでしてね、離れにいると思いますよ」
私が案内します、と香坂奈穂が名乗り出た。
毒龍邸の構造は、真上から見ると、龍がとぐろを巻いている姿に見えるよう設計されており、螺旋状のいびつな廊下を、ぐるりと取り囲むように部屋が並んでいる。そのため、零十と美琴は、邸内の複雑な動線に慣れるまで、少しばかり時間を要した。途中、廊下が十字に重なっている箇所を除けば、玄関から、玲華嬢の離れの自室まで、曲がった長い一本の廊下で繋がっていることになる。
屋敷の北側、奥まった場所に大広間がある。その外周の縁側の通路を進み、二人は香坂奈穂とともに、離れへ向かった。
「玲華、教授を連れてきたよー」
「お待ちしておりました。虎井戸先生」
窓際に立っていた大槻玲華は、こちらに振り返った。細身な体型の彼女は、艶のある長い黒髪を、胸の高さまで垂らしている。絵に描いたような見返り美人である。
「先生の本、すべて拝読させていただいております。『Don't worry怪奇現象』『虎井戸落とし』、そして最新作の『君たちはどうベストを尽くすのか』。非常に興味深い内容でした」
「どれも僕の力作です。さぞかし、親御さんの教育が、行き届いているんでしょうね」
「とっても読みやすかったです。文字が大きくて」
「……それは、どうも」
広々とした室内の床には、一面に赤い絨毯が敷かれ、中央には西向きにセミダブルベッドが置かれている。東側、入り口の扉から見て正面の壁、ベッドの向こう側に、大きな姿見が設置されていた。南側には両開きのガラス窓、重厚な木製の机、そして、隅に観葉植物があった。北側には、たくさんの洋服が掛けられたオープンクローゼットと、様々な種類の書籍が並ぶ本棚があり、中でも零十の目を引いたのは、本棚に置かれた土器であった。
「これは、弥生土器ですね。深い地層まで掘らないと見つからないはずです。外の廊下の突き当りにも置いてありましたよね」
「あまり詳しくないのですが、形が綺麗なので、置いてるんです。くれぐれも触らないでくださいね。貴重なものらしいので」
これまで、興味なさそうに押し黙っていた日比谷美琴が、突然口を開いた。
「あのー、玲華さんが、毒龍に呪われているというのは、本当なんでしょうか」
「いきなり失礼じゃないか。何を言い出すかと思えば……すみませんね、彼女は学術的なことは点で駄目で」
大槻玲華は、美琴に鋭い視線を投げ、不敵に微笑む。
「ええ、本当ですよ」
「具体的には、どのような」
「毒龍の言い伝えについては、奈穂から聞いていると思いますが、この屋敷では、過去に二人の人間が不審な死を遂げています……次は、この私かも」
「ちょっと玲華、何言ってんの、冗談はやめてよ」
「ごめんなさい、体調が優れないので、パーティが始まるまで少し休みます」
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