問題編①

 群馬県N郡の山間部に位置する慶棈けいせん村は、かつて紡績業の興隆によって栄えた地域であった。一代で財を成してその地位を築いた名士、蔦藪冨久雄つたやぶふくお氏の邸宅(現在の旧蔦藪冨久雄邸)があった。蔦藪氏が度々、政財界の大物たちを屋敷へ招き、秘密裏に会合を開いていたとする黒い噂もまことしやかに囁かれていたが、真偽のほどは定かではない。産業の衰退とともに、人知れず時代の端に追いやられた本邸は、山林の内にひっそりと佇み、当時の華やかさは見る影もない。

 本邸は蔦藪氏の没後、しばらくは所有者不在であったが、十年ほど前に資産家の大槻耕三郎おおつきこうざぶろう氏が周辺の土地一帯を手中に収めた。しかし、邸宅が大槻氏の手に渡ってからというもの、屋敷に関わる人間に様々な不幸事が起こった。村の人間たちは口々に、「毒龍の祟りだ」と言って恐れたのだった。

 この村には、古くから語り継がれている毒龍の伝承がある。

 村の西側の湖に、極めて邪悪な性格の毒龍が棲んでいた。機嫌を損ねると火炎を吐きながら村中を暴れ回り、天災や水害、飢饉を起こして人々を恐怖に陥れていた。困った村人たちは、毒龍の怒りを鎮めようと、毎年一人ずつ年頃の若い娘を生贄に捧げたが、毒龍の災いは鎮まるどころか、一向に収まる気配を見せなかった。ある時、地方行脚をしていた高僧が村を訪れ、毒龍と対峙した。僧侶の並外れた法力を前に、毒龍もついには降伏したとされている。

 現在では土地の守り神として祀られているが、大昔から慶棈村周辺は「忌み地」として避けられてきた。長年、旧蔦藪邸に買い手がつかなかったのも、このためである。生贄の風習が、ほんの数十年前まで続いていたとする研究者もいるが、いまとなっては毒龍のみぞ知るところである。

 その曰く付きの屋敷は、忌まわしき伝承を揶揄して、「毒龍邸」と呼ばれるようになった。


          *


「お腹の子の父親を、探して欲しいんです」

 虎井戸零十とらいどれいとは、思わずコーヒーを吹き出していた。

「なんだって?」

 帝都大学文学部史学科考古学研究室を訪ねてきたのは、ゼミの三年生、香坂奈穂こうさかなほだった。どこか日本人離れした顔立ちの彼女は、ゼミの学生の中でも成績は優秀だった。

 この部屋の番人である虎井戸零十は、つい先日、教授に就任したばかりであった。痩身の体躯で、ボサボサの髪をセンターで分け、堀が深く、目は落ち窪んでいる。鼻の下と鋭い顎の先に蓄えられた口髭は、わずかに整えられていた。「折り入って相談がある」と学生から言われ、何事かと色めき立っていたわけである。

 入室してからしばらく、何やら言い出しづらそうに、香坂奈穂はもじもじしていた。まあ、まずは一服しないかと、零十はインスタントコーヒーを勧めたのだが、丁重に断られたところだった。

 すると彼女は、開口一番、とんでもない爆弾をこの狭い部屋に放り込んできたのである。

「あ、ごめんなさい。説明が下手で。私の親友の話なんです」

「おいおい、おどかさないでくれよ。それを先に言ってくれ」

 研究室は、うずたかく積み上げられた研究書や書類の山で溢れ返り、壁の棚には化石や標本の類がずらりと並んでいる。二人は小さなテーブルを挟んで、両側のソファに座って向かい合っていた。

「私の地元、群馬の田舎の方なんですけど、親友がいるんです。お父さんが資産家で、おっきいお屋敷があって、今度そこで、その子の誕生日パーティがあるんです。私も招待されたんですけど、久々に連絡を取ったら、彼女、妙な事を言い出して……」

「妙な事?」

「妊娠したかもしれないって……でも、相手の男性は誰なのか、絶対教えてくれないんです。しかも……」

「しかも?」

「……毒龍の呪いの仕業だ、って言うんです。ずっとその一点張りで」

「毒龍……? なんだいそれは」

「村に昔から残っている伝承です。毒龍っていう悪い怪物が、女の子を連れ去って悪さをするんです」

「民間伝承だったら、知り合いに詳しい教授がいるから、ぜひ紹介……」

「実はそのお屋敷で、以前に女性が二人も亡くなっていて……彼女は、次は自分なんじゃないかって言ってて、私心配で……」

 零十は面倒な相談を受けてしまったと、内心思いながらコーヒーを啜った。

「教授は、これまでにもいろんな怪事件に遭遇されて、その度に解決なされてますよね」

「うん、まあ……えっと、そんなもんだな」

「お願いです、先生しか相談できる人がいなくて」

 香坂奈穂は、上目遣いで零十を見つめてくる。

 飲み会の席に遅れてやって来て、後から場をかき乱すタイプだな、と全く関係のないことを、虎井戸零十は考えていた。

「群馬か」零十はマグカップをテーブルに置く。「浪漫があっていいじゃないか」



 切り立った山脈の先から、積乱雲が迫っている。あれが大質量の水蒸気だとは、到底信じがたいほどに、巨大な白の塊が空に浮かんでいる。

 虎井戸零十の運転する愛車は、長いトンネルを抜けた。冷房の効きが悪く、うだるような熱気に、零十はワイシャツの襟元を仰いでいる。

 助手席では、日比谷美琴ひびやみことがしきりに枝毛を気にしていた。

「それで、引き受けちゃったんですか」

「ああ、もちろんだ。僕は女性に対しては、常に紳士でありたいからね」

「民俗学は専門じゃないんでしょ」

「所詮は男女の色恋沙汰だ。その点では僕の専門分野といえる。地道に証拠をかき集めて、推論を立て、鮮やかに謎を解き明かす。考古学の調査と探偵業は実によく似ているんだよ、日比谷君」

「何が、浪漫、ですか。ただ若い子にいい顔したいだけでしょ」

 日比谷美琴は呆れたように窓の外を見る。丸顔に銀縁の丸眼鏡、重たい前髪に鎖骨まであるウェーブがかった黒髪。肌は、そのまま透き通ってしまうほど、病的なまでに白い。都内で会社員として働く彼女は、普段はフォーマルスーツだが、今日ばかりは、ノースリーブに薄手のロングスカートといった、夏使用の出で立ちだった。

 零十が、たまった有休を温泉で消化しないか、と電話で呼んだら、すぐに食い付いてきた。これまで解決に導いてきた怪事件の数々は、ほとんどが日比谷美琴の聡明な洞察力によるものであった。

 舗装されていない道に差し掛かった。「落石注意」の標識を過ぎると、左手に大きな湖が現れた。

「ちょっと顔を出すだけさ。今回は、あくまでフィールドワークのついでだ。この辺りを掘れば、土器やら出土品やらがごろごろ見つかるはずだよ」

「急に群馬の山奥なんて、死体でも埋めに行くのかと思いましたよ」

「偏見が過ぎるな。馬に乗った部族に追いかけられて、弓矢で射抜かれるぞ」

 小型のクラシックカーは、蛇行した山道を進む。

 遠くで、かすかに雷鳴が聞こえた。



 豪勢な門をくぐると、足元に飛び石が続いており、よく手入れの行き届いた庭の先に、屋敷の玄関があった。「毒龍邸」とは名ばかりの、案外、質素な外観の、ごくありふれた平屋の日本家屋である。屋敷の敷地面積はかなり広いようだ。

 使用人らしき女性が、二人を出迎えた。

「虎井戸零十様ですね。香坂様から伺っております。そちらの方は……?」

「彼女は、まあ……助手です」

「温泉は、どこに行けば入れますか?」

「おい」

 玄関の正面には、額縁に入れられた大判の絵画が飾られていた。雄大な山々の自然と、それに囲まれた湖を俯瞰して描かれたものだった。

「こちらは、どなたが描かれたんでしょうか」

「主人である耕三郎様のお嬢様、玲華れいか様です」

「龍神湖ですよね。ここへ来る道中で見えました。素晴らしい絵だ」

「あのー、これって、どこの場所から見た絵なんですか」

 美琴は絵画に鼻先を近づけて首をかしげる。

「鳥瞰図の技法を知らないのか、日比谷君。馬鹿にされるぞ」

 こちらです、と使用人の垣根芳子かきねよしこは、圧倒的スルースキルとともに、二人を奥へ案内する。彼女はつい最近、この屋敷に仕えるようになったらしい。

「あ、零十教授! いらしてくださったんですね」

 パーティの準備を手伝っていたであろう、香坂奈穂がひょこっと姿を見せた。その背後から、杖を突いた初老の男性が現れた。

「あなたが虎井戸さんですか、いやあ、お噂はかねがね。ええと、お隣は……?」

「虎井戸の助手です。日比谷と申します。お見知り置きを」

 美琴も助手で押し通すことに決めたようだ。

「足が悪くてね、こんなのだから何もお構いできませんで」

「いえいえ、とんでもない。お会いできて光栄です、大槻先生」

 柔和な笑みを浮かべる大槻耕三郎は、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。

「娘が先生の大ファンでしてね、離れにいると思いますよ」

 私が案内します、と香坂奈穂が名乗り出た。

 毒龍邸の構造は、真上から見ると、龍がとぐろを巻いている姿に見えるよう設計されており、螺旋状のいびつな廊下を、ぐるりと取り囲むように部屋が並んでいる。そのため、零十と美琴は、邸内の複雑な動線に慣れるまで、少しばかり時間を要した。途中、廊下が十字に重なっている箇所を除けば、玄関から、玲華嬢の離れの自室まで、曲がった長い一本の廊下で繋がっていることになる。

 屋敷の北側、奥まった場所に大広間がある。その外周の縁側の通路を進み、二人は香坂奈穂とともに、離れへ向かった。

「玲華、教授を連れてきたよー」

「お待ちしておりました。虎井戸先生」

 窓際に立っていた大槻玲華は、こちらに振り返った。細身な体型の彼女は、艶のある長い黒髪を、胸の高さまで垂らしている。絵に描いたような見返り美人である。

「先生の本、すべて拝読させていただいております。『Don't worry怪奇現象』『虎井戸落とし』、そして最新作の『君たちはどうベストを尽くすのか』。非常に興味深い内容でした」

「どれも僕の力作です。さぞかし、親御さんの教育が、行き届いているんでしょうね」

「とっても読みやすかったです。文字が大きくて」

「……それは、どうも」

 広々とした室内の床には、一面に赤い絨毯が敷かれ、中央には西向きにセミダブルベッドが置かれている。東側、入り口の扉から見て正面の壁、ベッドの向こう側に、大きな姿見が設置されていた。南側には両開きのガラス窓、重厚な木製の机、そして、隅に観葉植物があった。北側には、たくさんの洋服が掛けられたオープンクローゼットと、様々な種類の書籍が並ぶ本棚があり、中でも零十の目を引いたのは、本棚に置かれた土器であった。

「これは、弥生土器ですね。深い地層まで掘らないと見つからないはずです。外の廊下の突き当りにも置いてありましたよね」

「あまり詳しくないのですが、形が綺麗なので、置いてるんです。くれぐれも触らないでくださいね。貴重なものらしいので」

 これまで、興味なさそうに押し黙っていた日比谷美琴が、突然口を開いた。

「あのー、玲華さんが、毒龍に呪われているというのは、本当なんでしょうか」

「いきなり失礼じゃないか。何を言い出すかと思えば……すみませんね、彼女は学術的なことは点で駄目で」

 大槻玲華は、美琴に鋭い視線を投げ、不敵に微笑む。

「ええ、本当ですよ」

「具体的には、どのような」

「毒龍の言い伝えについては、奈穂から聞いていると思いますが、この屋敷では、過去に二人の人間が不審な死を遂げています……次は、この私かも」

「ちょっと玲華、何言ってんの、冗談はやめてよ」

「ごめんなさい、体調が優れないので、パーティが始まるまで少し休みます」

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