6.5 エクスチェンジ

 翌日、シンタロウとサクラは中層階の中庭を散歩したり、展望フロアからシアトルの街を眺めたりして午前中を過ごした。サクラが気に入っているトラディショナル料理のレストランで朝食と、昼食をとった。そして、昼過ぎにアールシュと合流した。アールシュはエミュレータ史やジャーナル・レコードからサルベージされたテクノロジーに関する文献をずっと読んでいたようだ。それらは外部データとしてコピーはできるが、前提となる蓄積データが少なすぎてアールシュにはインストールできなかったという。


 サリリサとの待ち合わせは14時30分にしていた。時間よりも30分も早く到着したサリリサは、昨日と同じようにフォーマルなスタイルで現れた。UCL研究所のフロアではアールシュに理解できないファッションの人々もよく見かけたが、サリリサのファッションはアールシュにも理解できるものだった。ティア2現実ではティア3住居リージョンの文化やファッションを輸入しているという記述をエミュレータ史で見た記憶がある。


「少し早いけど行きましょう。」


 サリリサはそう言って、アールシュたちをUCL研究所内のエクスチェンジが設置された部屋へと案内した。ティア2現実が用意したエクスチェンジは人が一人通過できる程度の広さで、長さが10フィートくらいのトンネルのようなものだった。トンネル内部には電磁波を放射している。エネルギー量が非常に高く、波長の短い電磁波を重ねることでディフェクトを模倣しているようだった。そこにティア1がエクスチェンジをアタッチしたのだろう。人体に影響がないのかサリリサに確認すると首を振る。アールシュが考えている通り、これだけ大規模な装置で発生させた極限まで短い波長の電磁波が人体に無害なはずがない。当然、致死量の放射線を浴びることになる。ティア1側からエクスチェンジがアタッチされていれば、ティア2現実に出る時に通ったエクスチェンジと同じように通過できというのだろうか。


 サリリサは躊躇なくトンネルに入り、電磁波の中心に向かって歩き出す。それにシンタロウとサクラが続いた。アールシュは「結局まだ私は仮想空間の中にいるのだ」と考えて覚悟を決めた。

 体の感覚だけが残るまぶしい光とも欠落とも取れないトンネルの中を通り、気が付くとアールシュは小さな部屋で横になっていた。


「お待ちしておりました。使いのヒューと申します。一度こちらへどうぞ。」


 部屋のドアを開けると、柔らかい物腰と丁寧な口調の初老の男性が中央の部屋で待っていた。これまでに通ってきたインターコネクタやエクスチェンジと変わったところはなく、同じことが起こっているのだと認識した。気が付いた時にはすでにティア2現実のフィジカルを失っているはずだ。ここはティア2とティア1の中間で、まだアールシュの思考はティア2現実側の演算装置で処理されている。もう一度、一瞬気を失うことで蓄積データがダンプされ、ティア1側のフィジカルへ処理が移されるはずだ。


「コーディネータ」であるヒューが示したタイミングでもう一度、それぞれの部屋に入り、ベッドに横になると一瞬気を失いすぐに目を覚ました。


「真実の現実」ではマテリアルへの投射ではなく本物のフィジカルが必要だった。それはティア2現実に出た時と変わらないはずだ。しかし、「真実の現実」へ出る際には蓄積データの情報そのものだけではなく情報の記録フォーマットごとダンプされる。アールシュたちの蓄積データを保管しているフォーマットと「真実の現実」に存在するフィジカルのフォーマットは大きく異なるため形式の変換ができない。記憶フォーマットが肉体側に定着するのと、肉体側に用意された身体の制御など原始的な反応とその記憶が、蓄積データ側の原始的な深層記憶層にインストールされ、定着するまでに時間が必要だった。アールシュたちはフィジカルと蓄積データが定着するまで28時間ほど眠った。


「慣れるまでしばらく横になったままでいて下さい。」


 アールシュが目を覚ますと部屋の扉越しにヒューが声をかけてくれた。体が思うように動かない。力の入れ方が分からなかった。軽く腕を曲げるつもりが、力を入れすぎて自分の胸を強く叩いてしまい咳き込んだ。もう一度慎重に腕を曲げるが、今度は、力が軽すぎて手のひらが震えるだけで腕が動かない。何度やっても自分の体のコントロールが定まらなかった。よく見ると指先が震えて止められない。そのうち指先どころか全身が震えて焦点も定まらなかった。アールシュが諦めて目を閉じた。


 どのくらい時間が経っただろうか。身体の感覚に慣れてきていた。数時間、もしかしたらもっと時間が経ったのかもしれない。部屋の外から紅茶の匂いが漂ってきた。その瞬間、緑の葉が蒸され発酵し、そして乾燥していく映像が脳裏に鮮やかに流れた。ヒューが入れてくれた紅茶だろうか。


「何か特別な紅茶でしょうか?」


 思わず口を開いてアールシュが尋ねた。まだ少し聴覚に違和感があり、もしかして自分だけに聞こえる程度の声だったのか、そもそも声自体が出せていたのか、アールシュはそれすら分からなくなりそうだった。


「いいえ。上質なものを選んでおりますが、皆様がご存じの種類の茶葉になります。お体と蓄積データがリンクするまで過剰な反応をすることがございますのでもう少し、ゆっくりなさることをお勧めします。手が動かせそうでしたら、すぐに紅茶をお持ち致しましょうか?」


 ヒューが反応を示してくれたことで自分がしゃべることが出来ていることを知り安心した。アールシュは温かいものが飲みたかったので、腕が動かせることを確認し、ヒューに紅茶を持ってきてもらえるように頼んだ。部屋の扉が開き、ヒューが紅茶を運んできてくれる。扉の向こう側の部屋に、先に起きていたシンタロウとサクラの姿が見える。シンタロウがサクラに人間の体の感想を尋ねていた。


「人間の身体ってセンシングデバイスとプロセッサみたいに感覚が先行することも遅れることもないの。それに多重感がないのが快適ね。統合されているってこういうことだったんだね。」


 そう言ってサクラは立ち上がり、両手の指を絡め、腕をあげて伸びをする。ティア2現実に出た時と同じだが、今度は伸びをする振りではなく、本当にそうしたかったのだろう。サクラを見ながらシンタロウはそう思った。


「なるほどね。すごく心地がいい。1つの主観だけしかないんだね。他のことを処理しているスレッドみたいなものはたくさんあるのに、とても小さなバックグランド処理に勝手になってくれるんだ。どのコンテキストスイッチも私が操作した気がしない。ほんとにスムーズなんだね。」


 サクラはそっと指先で手首に触れてみる。指を動かしても手首を動かしても動力のかすかな振動が聞こえない。目を閉じると自分自身の鼓動を感じる。


「鼓動だけがある。そう考えるといつも検知していたモーターの小さな振動ですら煩わしかったんだ。」


 サクラはヒューが運んできてくれた紅茶を一口飲む。グローヴ財団記念学園やUCLのレストランで飲んだ紅茶とまるで別物のようだった。この差がヴィノであった自分と人間になった自分の差だというのだろうか。シンタロウのPAだった頃に認識していた紅茶の味とも別物だった。


 それから1時間ほどした頃にサリリサが目覚めて中央の部屋に入ってきた。


「すごいわ。五感が研ぎ澄まされている。音楽でも聴きたいわ。そうね、今の気分ならティア3のクラシカルな電子ミュージックがいいわね。それにクリエイティブなことがしたい気分。ねぇ、さっきからすごくいい匂い。私にも紅茶をもらえるかしら。」


 サリリサは体のコンディションがいいらしく上機嫌だった。そしてヒューが淹れた紅茶を飲んで驚き感動していた。その後、ヒューが用意してくれた手の込んだENAUのトラディショナルな料理を食べてくつろぎ、その日はゆっくりと眠った。翌朝簡単な朝食をとり、紅茶を楽しんだ後、ヒューが声をかけた。


「よろしければ、参りましょうか。」

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