第2話

後の世には『幕末の三舟』と語られる人物がいた。

1人は坂本竜馬 2人目が西郷隆盛 3人目が勝海舟である

勝海舟とはどんな人物か? そんな謎を解く上で坂本竜馬は欠かせない重要な人物である事は間違いないであろう。

まずは坂本龍馬の幼少期から追って見よう……。

時は大政奉還の後になるが、1502年7月10日に京都で元服したとされ『武』の一字を貰ったとされる

(これは史実であり正しければ)

の話である……。

それはさておき、龍馬は20歳の時に剣術を学ぶ為に 江戸へと旅立ち北辰一刀流 玄武館道場で沖田総司から剣術を習い始めたとされている。

(あくまでも史実上ではあるが)

そんなおり、尊王攘夷の志に賛同した者達と一緒に海舟は諸国を巡り周るのである。


1つ目が近江だ


琵琶湖の中にある為湖の様だった事が由来とされる

(あくまで史実上ではあるが)

そんな彼らが立ち寄った場所が、坂本龍馬が剣術を学ぶのに通ったとされる近江屋だ

(これもあくまでも史実上だが)

ただし実際にあった事ではないかも知れない……。

2つ目が紀州である 江戸で人気だった歌舞伎役者や芸人が多く潜伏していたとされている場所だ 3つ目の場所は土佐(現在の高知県)である。

(1番可能性の高い説ではあるがこれはあくまで噂の為信憑性に欠ける部分がある)

そんな場所を見た坂本龍馬は

『ここの者は皆、口ばかりである』

との感想を持ってしまった。

(これもあくまでも史実上ではあるが実際にそう感じたかまでは分からない)

そんな中で土佐藩の上士によって宿に連れて来られた坂本龍馬は、別室に通されたのだった。

1人になった所を見計らい数人の薩摩藩士が坂本龍馬を囲んでいたのだ

そして口を塞がれた龍馬は縛り上げられそのまま連れて行かれる事となった。

薩摩藩屋敷に到着後、部屋に閉じ込められると坂本龍馬の姿を見た薩摩藩士が言うのである。

「こんな者を何故連れて来たのだ?殺すか?」

(こんな者呼ばわりされる)

そんな屈辱的な思いをしながらも殺される恐怖に怯えるしかなかったのだ。

(これが有名な寺田屋事件である)

そんな思いがあったのだが

実際はそうではなかったようだと言える情報が2つ存在しているからである。

1つは寺田屋では土佐藩士達が酔って寝入っていた事から、薩摩藩士達は龍馬を放置していたとされる説 そしてもう1つの説があるのは 実は坂本龍馬が史実として存在する人物であるとされているかである。

(これはあくまでも事実なのだが)

まず1つ目の説があるのだが……これが真実だった場合の話をしなければならないだろう

何故ならここに連れて来られた時既に生殺与奪の権利を握られている状態にあるのは言うまでもない事実である。

生殺与奪の権利を握るということは殺すことではなく、拷問をするということに他ならない

(まぁ、当たり前と言えば当たり前だ)

そんな状態で口を塞がれれば恐怖心が増すのは当然であろう。

そこでだ 2つ目の説があるのだが

これは薩摩藩士達が龍馬を匿っていたとされる説なのである。

これもまた何故そうしたのかまでは分かっていないが少なくとも龍馬にとって好待遇であった事は間違いないだろうと思われる節はある。

(龍馬自身もその様な事を口に出していた様だ)

しかし、藩によって殺されたという説と拷問の末に毒殺されたとする2つの説は坂本龍馬の暗殺に多く尾を引く問題なのだ 薩摩と長州の対立により日本は大きく揺れ動かされる事になるのだが、それは後の話になるのでもう少し待って欲しいと思う。

そんな寺田屋での出来事から8ヶ月後のこととなる9月23日

(西暦に直すと1702年10月8日)

に龍馬は切腹する事となる。

その理由は、龍馬が薩摩藩邸に滞在していた事を知り怒り狂った会津藩主である松平容保からの刺客が寺田屋に押しかけたからだと言われているのだ。

しかし、この様な説の他にも暗殺されたという説も根強く残る事になるのだが真相は明らかになる事はないだろう……。

(何だか切ない話だな……)

そんな想いを抱きながらも島津久光は坂本龍馬の殺害に関与したとされる会津藩を恨んだとされている。

それが、寺田屋事件に繋がったと考えれば何だか切ない話だが

(実際にどうかは定かでは無い)

こうして歴史は動いて行き大きく時代は変化していくのである

そうここから現代に至るまで。

そんな日本を変えたいと願う人達が居た事をこの物語を通じて知って貰えたら嬉しく思う次第である。

では、そんな寺田屋事件も一段落着いたところで改めて話を進めて行こう。

一橋家に仕えた徳川斉昭が将軍になる事となるのだがそれは後の時代だ。

(徳川光圀はこの時何をしていたのであろうか?)

そんな事を考え始めたのは江戸幕府13代征夷大将軍徳川家定の御世である慶長10年(1605年)だった。

(この頃に江戸では何が行われていたのか?)

それを知って頂こうと試みるのだが。

(あ~これも事実であって正しいとは限らないのだ)

その様な中であるきっかけを掴んだ為少し紹介して見ようと思う……。

(是非とも期待して頂きたいがどうかは定かでは無いしあくまで憶測の域に過ぎないので悪しからずご了承願いたいものである)

1つ目は、江戸で噂になっている坂本龍馬を自分の配下にしようと企てていたのだと考えられている。

(これは史実ではあるが)

そして、もう1つの説には島津斉彬の御世である宝暦13年(1763年)に起きた江戸中村座での騒動を鵜呑みにされている方も多いだろう。

(これもあくまで事実であって正しいとは限らないのだがまぁ期待して頂きたいのだ……というか変な期待は持たない方が良いだろう)

そんな願いは置いといてこの2つが一橋家の将軍就任の噂である。

そんな中で一橋家の将軍就任を望む声を大きくしていったのである。

そんな声が何処から上がったのかと言えば水戸藩内部の事情が関わっているのではないかと現在では推測されている様だ

(これも史実とは言い切れないのだが……)

そして、もう一つの説とされているものを紹介するのだがそれが後に徳川吉宗の御世となった享保13年(1728年)に御府内警衛を命ぜられた水野忠邦を上司としていた幕臣が多数、一橋家への仕官が叶わず失望された。

そんな事情も相まって

『御意』と答えるものが居なかった為 それを耳にした江戸中村座の人達は早合点して噂話を広げたのだ

という流れを作られてしまっている説なのだがあくまでも推測の域でしかなく史実ではないとされている

(これもあくまで事実では無かったとしてもだ)

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