第39話 檻
空気がまた、湿度を増した。松明の炎が重たく揺らぎ、組まれた薪が小さく爆ぜた。呼吸をすると不快な気が胸を満たし、息を止めてもべったりとした黒い気配が肌にまとまわりついた。
「きました」
小さな声でハワラが告げた。
途端、多柱室に重い衝撃音が響いた。続いて頭上から、くぐもった声が聞こえてきた。
「【贄を用意したか。人間の小僧が、小賢しいことよ】」
アーデス、ライラ、カエムワセトが守りを固める中、ハワラは多柱室の中央に描かれた結界の中に立っていた。ハワラの傍らには、メルエンプタハを抱いたイシスネフェルトも座っていた。
ハワラは多柱室の天井を見上げた。多柱室の天井部分は吹きぬけていて高く、松明の灯りも届かない暗がりだった。その暗がりが、波打つように動いていた。
「お前は何者なんだ! 僕に何をさせたいんだよ!」
天井に向かって叫ばれたハワラの問いかけに答えは返らず、暗闇が波打ち、ズズズと何か大きなものを引きずる音が響いた。
その異様な音に怯えたメルエンプタハが、イシスネフェルトにしがみついた。
アーデスとライラは剣と弓を構え、頭上に注意を払った。
「冥界の秩序を乱し、闇の主の名を汚すその行為は大罪に値する。神々より天罰が下る前に、この場から立ち去れ」
カエムワセトが低い声で警告した。
神殿の壁を揺するほどの大きな笑い声が響きわたる。
「【天罰じゃと! 罰ならばもう存分に食ろうたわ! もはやどのような罰も我にはぬるま湯の如し!】」
「相当やんちゃしてきたみたいだな」
アーデスがげんなりと言った。悪漢はもう十分、といった様子である。
イシスネフェルトがその紅い唇を開き、「王子。もういいっしょ?」と女性の割には低い声でカエムワセトに許可を求めた。
「ああ」
カエムワセトはイシスネフェルトに頷いた。
その返事を合図に、イシスネフェルトとメルエンプタハが、胸元に下げていた護符を引きちぎった。そこに現れたのは、イシスネフェルトの鬘とドレスを身につけたジェトとカカルであった。
「護符で姿を変えられるんだったら、着替える必要なかったじゃねえか! ご丁寧に化粧までしやがって!」
ジェトは文句を言いながら鬘を放り投げ、いつものチュニックの上から着たドレスを脱いで、手の甲で化粧をぬぐった。
「あーあ。ワセトの奴、ホントに神殿のお宝使っちまったよ」
「フイ最高司祭がいいって言ったならいいんじゃない?」
アーデスとライラが床に転がっている『ホルスの目』を象った、二つの護符を眺めながら言った。
カエムワセトは、プタハ大神殿の宝物庫に陳列されていた変身用の護符を持ち出したのである。勿論、これらは珠玉の一品であった。神官達がこの使用済みの壊れた護符を見たら腰を抜かすであろう。
天井から、悔しげなうめき声が聞こえた。
その声を聞いたジェトは、にやりと意地の悪い笑みに口を歪めた。
「残念だったなぁ。あんたの標的は今頃ペル・ラムセスの宮殿でファラオ軍と神官団にがっちり守られてるぜ。それこそ、ありんこ一匹這い出る隙もねえ態勢っちゅうやつだ」
ジェトが持ち前の生意気な目つきと口調で、魔物の神経を逆なでした。
「【変化の術など使いおって! 貴様ら全員、我の腹に収めてくれるわ!】」
爆発するような怒鳴り声が多柱室に響き渡った。
台風の如く襲いかかって来た強大な魔力の波動に、全員が耐えられず顔をそむけた。
壁や柱がビリビリと細かく震え、埃や砂が落ちてきた。これでは本当に神殿ごと破壊され、逃げられかねない。
「お前が、破れない檻に入るほど馬鹿ではない事は、我々も承知している」
カエムワセトは静かに言うと、ショールの下から巻物を取りだした。黒曜石で造られた二本の軸で構成された魔術書。トトの書である。
天井の影がびくりと震えたように見えた。カエムワセトは巻物を広げると、そこにある神聖文字を詠唱し始めた。
「『我は知恵の神トト神の名代またはその人なり。我は真理より叡智を受けたまう祝福を与えられた。我の息はトトの息。我の手はトトの手。故に我、カエムワセトは万物を操りし御技を許されし者なり』」
朗々とした詠唱の中、台地を揺るがすような地響きが鳴り、神殿が再び震えた。
地響きと同時に、トトの書が輝きだした。そして、カエムワセトが詠唱を終える頃、トトの書はセト神の頭を上部に象ったウアスという杖に姿を変え、地震も止んだ。
カエムワセトは迷わず二股に分かれた杖の下部尖端を床に打ちつけた。
金属と石がぶつかり合う高い音が鳴り響いた次の瞬間、杖の先から光が放射状に放たれ、神殿全体を包み込んだ。
光はすぐに消えたが、神殿の空気は一変していた。そこには、外部からの魔を拒む力と、内部のあらゆる魔性のものを封じ込める強い力が同時に備わっていた。
「檻が完成した。お前はもう、この神殿から逃げる事は出来ない」
カエムワセトが、目の前に姿を現した大蛇の魔物に、形成の逆転を告げた。
ホルス神殿を戦場にした、闘いの幕開けであった。
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