第八章 魔装の激突
第37話 決戦直前
いよいよ、紅い陽が西のピラミッド群に沈もうとしている。燃えるように輝いていた空は、東の方から徐々に藍色に落ちて行った。
ホルス神殿では、来るべき夜に向けて松明が並べられ始めた。
ハワラは二階の窓から、畑地帯の向こうにあるメンフィスの町を見つめていた。だが、やがて意を決したように拳を握りしめると、後方にいるカエムワセトに振り返った。
「殿下、お願いです! 最後に一目、母さんに会わせて下さい!」
そこには、メンフィス王宮を出た時の顔ぶれが揃っていた。
ハワラが日中、ずっと我慢していたであろうことは、そこにいる全員が分っていた。家へ帰るには、これが最後のチャンスであろう事も。加えて、ハワラの家は、このホルス神殿から目と鼻の先であった。
だが闇が迫る中、ハワラを仕掛けの中から放つのは得策とは言えなかった。
「もう夜だ。神殿から出るのは危険だぜ」
アーデスがその場の全員を代表する形で苦言を呈した。だがそう言ったアーデス自身も、言葉の最後で気の毒そうに視線を落とした。
しばし続いた気まずい沈黙は、ハワラが折れる形で終了した。
「そうですよね。やっぱり無理ですよね」
泣きそうになりながら必死に笑顔を作ろうとするハワラの姿に、部屋のどこからか、ため息が漏れた。
「ジェト。悪いが、ハワラの護衛を頼めないか?」
カエムワセトが口を開いた。
「え? あ、はい。いいっすけど」
指名されたジェトは、訳も分らないまま承諾した。
「アニキが行くんならおいらも!」
いち早くカエムワセトの思惑に気付いたカカルが、元気よく護衛に立候補した。
「おいワセト!」
同じく主の意向を察したアーデスが、短く異議を唱えた。
「ハワラは、奴が動くのは皆が寝静まる深夜だと言っていた。なら、きっとまだ大丈夫だ」
カエムワセトは、僅かながらの猶予の存在を主張した。
「母親に対するハワラの未練は強い。魔物を退けても想いを遂げさせないことには彼は冥界に旅立てず、再びつけこまれる恐れがある。それに……」
そして憎まれ役を引き受けようとしてくれたアーデスに、申し訳なさそうに微笑んだカエムワセトは、「母君を案ずる彼の気持ちは、分らないではないからね」と付け加えた。
「お前の悪い癖だぜ」
アーデスは嘆息した。ハワラの一途な気持ちは見事、情にもろい主人の心を動かしたようである。そしてこの頑固な主人がこういう故意犯的な顔をしている時は、絶対に譲らない事もアーデスは知っていた。
「ほんとにいいんですか?」
戸惑いつつ確かめて来たハワラに、カエムワセトは頷いた。しかしながら、戒めを与える事も忘れなかった。
「ただし、母君には夢だと思わせるように。オシリスの許し無く蘇った者が、生前の自分を知る者へ干渉するのは賢明とは言えない」
それでもハワラは、目を輝かせて力強く頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「殿下。どうか私にご指示を。こいつらが敵からハワラを守れるとは思えません」
ライラが片手を胸に当て、身を乗り出した。
『こいつら』の一人であるジェトは、横目でライラを睨みつけた。
「あのな。俺だって剣くらい使えるんだ」
「おいらは、ちょびっとだけー」
カカルは相も変わらずヘラヘラと笑っていた。
「ライラ、申し出は有難いけれど、暗闇で動くのはジェトとカカルのほうが慣れているはずだ。あとは――」
そこまで言うと、カエムワセトは右腕をすっと横に伸ばした。次の瞬間、カエムワセトの後方にあった、鴉ほどの大きさの鳥の石像が羽を広げた。
「この隼が、君達を魔物から守ってくれるだろう」
他の石像と同じく、この神殿が建設された時から何年もそこに佇んでいたであろう隼の像は、積もった埃を散らせながら石の翼を羽ばたかせ宙に浮くと、カエムワセトの右上腕に止まった。
「アニキ。石が飛んだっス」
カカルが放心状態で言った。
「確かにこれは石だけれど、ホルス神殿の石像だ。普通の隼より頼りになるはずだよ」
カカルの台詞をやや間違った方向に解釈したカエムワセトは、にこやかに説明した。
「あー……ライラ、大丈夫か?」
嫌な予感を覚えたアーデスが、先程から隣でぴくりとも動かない相棒に、遠慮がちに呼び掛けた。
ライラは、立ったまま気絶していた。
★
町が寝静まる直前を見計らって、ハワラとジェトとカカルの三人はフード付きのローブを被って神殿を出た。
二階の窓から三人の姿を見送っていたカエムワセトは、三人が門を潜ったのを確認すると、右腕に止まっていた石の隼を、腕を振るって飛び立たせた。
カエムワセトの腕から放れた石の隼は、本物のように滑空すると、三つの人影と共に闇の中に消えていった。
「大丈夫でしょうか、あの子達は」
ライラはカエムワセトの横に並び、三人が消えていった方を不安げに見つめた。その表情と声色からは、ライラが心から彼らの身を案じている事が伺えた。
「ライラ、すまなかった」
隣から小さく聞こえた謝罪に、ライラは振り向いた。
そこには、自責の念に苛まれているカエムワセトの横顔が、松明の灯りに照らされ揺らいでいた。
「ハワラを生かす為に、私は君の忠義を逆手に取る真似をしてしまった」
続けて言ったやや俯き加減のその横顔は、悔やむ気持ちが強いのか、はたまた相手を直視する決心がつかないのか、どちらにせよ強い後悔が滲み出ていた。
今朝の出来事を言っているのだと気付いたライラは、曖昧に微笑んで瞼を伏せた。確かに心は傷ついたが、ライラは自分に非がある事も認めていた。
「あの時、殿下がああでも言わなければ、私はハワラを殺めていました。殿下は正しい事をなさったのです」
カエムワセトの判断は最善でなかったにせよ、不運に見舞われた少年の命を救い、忠臣が後悔の念に苛まれる事を防いだのである。それは否定できない。
ただし、とライラは続けた。
「私は絶対、殿下に剣は向けません。故に殿下が私と剣を交える事はありません」
「すまなかった。本当に」
十八にもなる青年が泣きだしそうな顔で頭を下げた。
「では一つ、約束して下さいますか」
例え元は幼馴染でも、今は主従の関係である。いつまでも主人に頭を下げさせている訳にもいかないと考えたライラは、場の空気を変える為、努めて明るい笑顔と声を意識して提案した。
「もし危ない目に遭われる時は、私の前になさってください。必ずお守りしますから」
冷静に考えるまでもなく、それは無理な頼みである。言ったライラも、約束を交わした所で守りようもないものだと承知していた。だが、失笑してしまうほどに馬鹿馬鹿しい口約束を交わす事で、カエムワセトの元気を取り戻せればと考えたのである。
「分った。お互いにそうしよう」
カエムワセトはライラの厚意に感謝しつつ、笑顔で承諾した。
しかしライラは、カエムワセトの返答に不満げな顔を作ると、「あ、あー」と首を横に振った。
「私は必要ありません。殿下より強いので」
いつもの調子で堂々と胸を張って断言した元幼馴染に、カエムワセトは楽しげに笑った。
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