第30話 ラムセス二世とネフェルタリ

 舞台はぺル・ラムセスに移る。


 雲ひとつない青天の昼下がり。ラムセス二世は、プライベートガーデンの木陰で、ネフェルタリとセネトというボードゲームに興じていた。

 青々と茂った草の上に絨毯を敷き、その上にネフェルタリは横座りし、ラムセス二世は胸の下にクッションを敷いて寝転がっている。

 忙しい公務の合間の休息であった。


「陛下、そろそろ公務に戻るお時間ではないのですか?」


 柔らかい手つきで糸巻き型のコマを一つ動かしたネフェルタリが、ラムセス二世に会議の時間を告げた。


「皇太子がいるから大丈夫だ。もう少しやろうぜ」


 投げ棒を振ったラムセス二世が、円錐型の駒を二マス進める。


 ネフェルタリは、美しいアイラインが描かれた目を伏せると、「陛下」とため息をついた。


「ビントアナトから逃げるのは、もうおよしなさい」


 ネフェルタリは最近夫の頭痛の種になっている側室の名を上げると、ゲーム版に備え付けられた引き出しを開けて、駒を片付け始めた。

 慌てたラムセス二世は両手でゲーム版を掴んで引きもどした。版の上に残っていた駒が、バラバラと絨毯の上にこぼれ落ちた。


「あいつ、執務室の前に椅子持ち出して毎日毎日俺の事待っとるんだぞ。大臣らには文句言われるし、宥めて部屋に返すのも一苦労なんだよ!」


 一言で済ませるとストーカーであるが、この時代のエジプトにストーカーという概念が存在したかどうかは謎である、故にここでは、ただの迷惑な女、または悪妻と呼ぶしかない。

 夫の愚痴を聞きながら、ネフェルタリは落ちた駒を拾い集めた。遊びの終わりを嫌がる子供のように、ゲーム版を握りしめて離さない夫の手に集めた駒を握らせたネフェルタリは、姿勢を正して意見した。


「きちんと叱ってやるのも愛情ですわ」


 夫として、元実父として。ラムセス二世にはビントアナトに側室として正しい振る舞いをさせる責任がある。それは勿論、後宮を仕切るネフェルタリの役割でもあるのだが、ビントアナトにとっては競争相手ともなりうる自分が苦言を呈するよりも、ラムセス二世本人から指導される方が心に響くであろう、というネフェルタリなりの考えがあった。


 だがラムセス二世は女性に甘く、それが愛娘相手となると殊更弱い。


「あんな愛らしい娘泣かせたら罪悪感で禿げちまうよ」


 ビントアナトが悪妻に成り下がったのはラムセス二世の責任も大いにあると確信できる発言である。


 わざとらしく両手で顔を覆い泣き真似をする良い歳の夫の頭頂部に、ネフェルタリは冷ややかな視線を送った。ラムセス二世自慢の赤毛は今日も潤沢且つ艶やかに陽の光を受けて輝いている。実に生き生きと、ストレスとは無縁の如く。


「あなたが禿げれば少しはあの子の執着も治まるかもしれませんね」


 ネフェルタリは冷たく言い放って横を向いた。


 ラムセス二世は身体を起こすとネフェルタリの顎に手を添えて、自分の方に向かせた。


「嫉妬してくれるとは嬉しいじゃありませんか」


 口づけようと顔を寄せる。


 ネフェルタリは唇が合わさる前に夫の顎を指先で押し戻すと、上品に微笑んだ。


「わたくしも、もういい歳ですので。嫉妬など恥ずかしい真似はいたしません」


 この戦友の様な正妻の、つれない態度はいつものことである。ラムセス二世はめげることなく、男性が友達同士でするように、ネフェルタリの肩に腕を回した。


「まあそう言うなよ。お前も俺もまだまだ若いぜ。まあ、お前は結婚したての頃に一生分、イシスネフェルトに嫉妬を――」


 ふと、ネフェルタリが細い顎を上げ、庭の蓮池に注目した。ラムセス二世も一呼吸遅れて、池の水面が妙な揺れ方をし、底から光が浮きあがっている事に気付く。


 ラムセス二世が片腕をネフェルタリの前に出し、妻を守ろうと後ろに下がらせた。その時、池が一層輝きを放った。続いて水面が高く持ちあがったかと思うと、そこから三人の人間が現れた。


「陛下、ネフェルタリ様。お久しゅうございます」


 池から現れたのは、乳母と共にメルエンプタハを腕に抱いた、ずぶ濡れのイシスネフェルトであった

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