第二章 魔術師の土産は神からの警告
第6話 キフィ香る夜。ハチミツのケーキ、カバ肉の煮込み
ライラがカエムワセトの前で平身低頭している。
「ライラ、もういいから」
カエムワセトはライラに頭を上げるよう何度目かの声かけをした。だがライラは更に頭を低くした。とうとう額が床についてしまう。
「殿下の御前で醜態をさらした揚句、ネフェルタリ陛下から歌まで頂戴したなど家臣にあるまじき愚行でございます! どうか処罰をお与えください!」
「だから罰する必要はないと言ってるのに……」
カエムワセトは胡坐をかいた膝の上に頬づえをつくと、自分が入浴から戻るなりずっとひれ伏しているライラの丸い頭を心底困った面持ちで見つめた。
辺りはすっかり陽が落ちていた。攻撃的な日差しは柔らかな月明りに変わり、焚かれたキフィのスパイシーな香りと共に部屋に流れる空気も幾分涼しくなったように感じる。
カエムワセトらはリラを交え、中庭に開いた開放的な一室で夕食を囲んでいた。床に絨毯を敷いて四方にクッションを並べ、中央には土器やアラバスターの器に盛られた食事が置かれている。葉野菜のサラダ、豆のスープ、カバ肉の煮込み、焼き立てのパンで器はたっぷりと満たされていた。
リラは給仕の女が蜂蜜のケーキを運んでくると、敷物の上に置かれる前に、千切りもせずそのまま持ち上げてかぶりついた。最後に食事を共にした一年間と同じコンディションであれば、リラは彼女の顔と同じサイズの蜂蜜ケーキを一人で平らげてしまうであろう。
カエムワセトはリラの変わらぬ食いっぷりに目を奪われながら、ライラを慰めた。
「ライラが魔術嫌いと承知の上で、リラと風呂に入ってもらった私達にも責任はあるんだよ。リラのお遊びに錯乱したくらい、責められる事じゃないだろ」
「そうとも。俺らはむしろ眼福だったしな」
アーデスの軽口を聞いた途端、アーデスの杯にワインを注いでいた給仕の女が派手に吹き出した。彼女はライラの醜態を目撃した一人である。
リラの魔術によって花弁や湯の塊がくるくると宙を舞う浴室から、一糸纏わぬ姿で叫び飛び出したライラは、その叫び声を聞いて駆けつけたカエムワセトとアーデスの姿を見つけると、前方にいたカエムワセトにしがみつき泣き喚いたのである。重ねて書くが、ライラはすっぽんぽんであった。
一足遅れて駆けつけたネフェルタリが、尻もちをついて真っ赤な顔で全裸のライラをくっつけているカエムワセトと、その横で笑い転げているアーデスを前に、しばし言葉を失ったのは言うまでも無い。
だがしかし、ネフェルタリとて巨大な後宮をまとめ上げる云わば女主人である。実に落ち着いた所作でライラを引きはがしたネフェルタリは、カエムワセトの名誉を守らんと羽織っていたショールをサッと下腹部にかけてその場から退場させてやった。そして、若かりし頃神殿で巫女を務めていた経験を活かし、濡れそぼったライラの赤髪を撫でてやりながら鎮まるよう耳元で歌ってやったのである。その歌声は神々しく、ライラだけでなく野次馬達の心までを落ち着かせた。
アーデスからのからかいと給仕の女の笑い声を聞いたライラは、忘れて下さいどうか忘れて下さい、と、いよいよ這いつくばるような土下座で懇願した。
カエムワセトも忘れてやれるものなら忘れてやりたかったが、そこまで便利な頭は持ち合わせていない。
さてどうしたものか、と小さく唸り側頭部を掻いたタイミングで、リラが「ライラ」と呼び、カバのシチューを食べよう、と手招きした。
五人分はあろうかという巨大な蜂蜜ケーキはいつの間にか消えていた。そこにあった名残だけが、柘榴の皮で染められた淡い緑色のワンピースの上に屑となって落ちている。
「ああ、またそんな汚い食べ方をして……」
ライラは面を上げた情けない表情のままリラに這って寄ると、腿の上の食べカスを手で払ってやった。続いて、まだ手のつけていない葉野菜のサラダや豆のスープを椀に取り分け、リラの前に置いてやる。
差し出されるやいなや、リラはサラダを鷲掴みにして口に詰め込み、水のように豆のスープを飲み干す。その間に、ライラは杯にミルクを注いでやっている。
魔術が苦手な割には魔術師であるリラに対して甲斐甲斐しく世話を焼くライラを、アーデスは不思議そうに眺めた。
「相も変わらずあいつの行動はちぐはぐだな。母性本能ってやつかねえ?」
「ライラはリラの事を純粋に好いているよ。再会できて嬉しいんじゃないかな」
カエムワセトは小声で問いかけて来たアーデスに、カバ肉をパンに挟んだものを食べながら答えた。リラがそれを興味深そうに見て来たので、同じものを作って渡してやる。
リラとはトトの書を手にした以来の付き合いである。カエムワセトがトトの書を返した理由はリラの説得によるところが大きかったのだが、トトの書を守っていたミイラとの戦いで満身創痍だったアーデスとライラは、カエムワセトとリラのやり取りを殆ど聞いていなかった。腹心の二人からしてみれば、気が付いたら復路の旅路にリラがくっついていた状況だったのである。その後もぺル・ラムセスの王城で数日を過ごしたリラだったが、ある日、煙の様に消えたのだった。それが一年前である。
古代エジプトは魔術大国であった。神事のみならず医療現場にも当然のように呪文が用いられていた。呪文を使用するのは主にファラオや神官や医師などの限られた職種の人間だけであったが、魔術と生活は切って離せないものだったのである。
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