第一章 第四王子
第2話 カバ狩り
けして愚鈍ではない。ただし鈍臭くはある。
傭兵アーデスは、民衆から誤認されがちな自分の主人について、よくこの様に説明する。
そして今日も、この王子は不名誉な誤解を招くのであろう。
アーデスは往来のそこかしこからぶしつけな笑い声を頂戴しながら、とぼとぼと歩いている隣の男を流し目に見た。
「殿下どうしたんです? 沼で水泳の練習でもしてきましたか?」
「いえ、これは狩りでしっぱ――」「カバ狩りして来たんだよ! ちょっと苦戦したもんでな!」
早速、冗談交じりに声をかけて来た市民に対し、『狩りで失敗』と馬鹿正直に話そうとした主人を押しのけたアーデスは、口早に言葉を返した。
第四王子カエムワセト。
アーデスの主人であるその青年は、泥まみれの濡れ鼠であった。父親譲りの伸びやかな四肢と、そこに纏う智の代名詞と言っても過言ではない神官服が、台無しなほどにずず黒い。王族がこのような格好で目抜き通りを歩くなど、笑われて当然であろう。
アーデスは嘆息した。その嘆息は、彼の心情を如実に物語っていた。
嗚呼めんどくせえ、と。
年の離れた兄弟並みの年齢差ではあるが、何故十八にもなる男のフォローをしてやらねばならぬのか。それは、この男が王族であるにもかかわらず、己の評価に無頓着すぎるが故である。加えて、カバ狩りに失敗したからである。狩るどころか追い回されたのである。つい先程ナイル川の湿地帯で。
「本当にごめん。アーデス、ライラ」
カエムワセトは実に申し訳なさげに肩を落とすと、自分の両側を歩む腹心の部下に詫びた。
「まったくだ。カバ狩り舐めんじゃねえぞ」
「私は大丈夫です。殿下にお怪我が無くて何よりでした」
腹心ではあるが忠臣でない傭兵アーデスと、忠義を尽くし過ぎるほどにカエムワセトに忠実な軍人ライラ。二人の返事は、それぞれの個性を現したかのようであった。
そういうアーデスとライラも同じく泥水をかぶっていた。二人も、仲良く一緒にカバに追い回されたのである。
狩猟はスポーツであると同時に、ファラオにとっては示威行為の一つとなる大切な活動でもあった。そこに本日、カエムワセトは参加を強いられたのである。神官服を着替える間も無く、引っ張り出されたのだ。
『事前に知らせたらトンズラするだろう、お前は』
ラムセス二世は息子の狩り嫌いと、行動パターンを見抜いていた。
それでも狩りに付き合わせたのは、秀才でありながら、武官の働きはてんで期待できないのろまに自信を持たせようという親心である。
結果、自信はつくどろか更に目減りしたのであるが。
ラムセス二世に責任は無い。トドメ役として草むらに潜ませておいた人間が、自分達が獲物を追いたてている間に居眠りしてしまうとは誰が想像しよう。
ナイルの水辺を縄張りとする動物において、ワニよりもカバの方が危険である事はエジプト人にとっては常識である。
ワニの牙をも阻む厚い表皮に覆われた巨体と、そこから繰り出される怪力。加えて、長ければ二キュービット(約一m)に渡る牙は脅威。性格も神経質で縄張り意識が強く、怒らせると非情に厄介。人間の命を奪う野生動物の最多でもある。
そんな水の猛獣を狩っている最中に眠りこけるなど、自殺行為に匹敵する。ライラとアーデスが起こしに駆け付けなければ、カエムワセトは興奮したカバに踏み潰されていたであろう。
こうして、近臣達の肝を冷やさせ、父王の期待を裏切り、足を引っ張っただけの自他共に認める愚図は、途中退場を言い渡されたのである。
「夢見が悪くて昨晩あまり眠れなかったものだから。いつの間にか」
自分もまさか眠ってしまうとは思っていなかった、とカエムワセトは首を垂れた。
「どんな夢をみられたのです?」
悪夢の内容を問うてきたライラに、カエムワセトは曖昧に笑った。
「なんて事無い、子供の頃の夢だよ」
それを聞いたライラが、しまった、といった様子で自責の念に眉を下げた。
対照的に、アーデスは「だからって狩りの途中で寝る奴があるかよ」と、遠慮なくカエムワセトを詰った。
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