第9話




 ◇ ◇ ◇



 夕食がてら出かけた二人の足は、自然と湖に向かっていた。

 旅行客についていけば難なく辿り着いたそこは、森の中にぽっかりと穴が空いたような場所だった。

 夕暮れの空から差し込む紫が氷を照らし、時間が止まった水面が幻想的に輝く。柵の外側から覗き込めば、表面は削り取られたようにざらつき、水底は暗く、見えない。

 周囲を見渡すと、明日を楽しみに歓談しながら、場所取りをしている人々がいた。国を挙げての一大イベントだ。繁華街には屋台がいくつも並び、明日を待ち侘びている。

 カスティは無表情で様子を眺めてから、エゼキエルに視線を移した。彼は僅かに目を見開いていて、湖の中央付近を凝視している。

 何事かと視線を辿れば、そこには霧のように朧げなジマが浮かんでいた。

 誰も彼女に気がついていない。おそらく女神に接触した者以外、姿が見えないようになっているのだろう。

 彼女は流水に似たドレスを揺らしながら、焦燥した顔つきで水底を見ていた。握りしめた拳は細く震え、白い肌は更に血の気が引いている。

 非力な自身に打ちのめされているかのようで、酷く──己に自己投影してしまいそうで──不愉快だった。


「行きましょう。わたしたちが彼女に出来ることはありません」


 これ以上、見ていられない。カスティはマントを翻すと、エゼキエルに呼びかける。彼は歯痒さに唇を噛んで小さく唸り、悼むように顔を背けた。けれどもその瞳は光を保ったまま前を見据え、カスティに続き歩き出す。

 その表情を横目に、短く嘆息した。おおかた、ジマの為に何か出来ないか、考えているのだろう。自分がつい先日、隣を歩く化け物に殺されそうになった事実も忘れ、誰かの為に奔走しようとしているのだ。


「王子。……あなたの奉仕精神は、美点かもしれません。しかし、今のご自身の立場はお分かりですか」

「しかしカスティ。あのままでは彼女は壊れてしまう」

「壊れたらあなたは、実害を被るのですか?」

「きっと後悔する」


 エゼキエルの一言に立ち止まった。同じく立ち止まった彼を見下ろし、呼吸の仕方も忘れて口を開閉させる。清らかな水面の瞳が、揺れることなくカスティを見つめ返した。

 単純で、簡単で、明快で、難しい。化け物に成り果てたカスティには、エゼキエルのいる世界がそう見える。

 彼は生まれながらに、光り輝く欠片を一つ一つ、大事に拾い集めているのだろう。おそらくジマも、周囲の人々も、同様に。

 壊れたら壊れたまま放り捨てる自分とは、そうするようになってしまった自分とは、もはや根本的に違うのだ。


「……カスティ……?」


 声にならない掠れた吐息が、カスティの口から溢れる。

 小さく首を振って意識を引き戻せば、杖を握りしめ、地面を軽く突いた。


「いいえ。あなたの言い分は理解できますが、時には不可能な事もあるのですよ」

「それは……」


 エゼキエルが一歩踏み出しかけた、その刹那。


「伏せて!」


 突如吹き荒れた竜巻のような風に煽られ、浮かび上がったエゼキエルを強く引き寄せる。マントの中に匿いながら、カスティは鋭い声を張り上げた。

 熱気を帯びた砂塵が二人を威嚇し、取り巻き、カスティは地面に杖を突き立て夕闇に目を凝らす。

 次いで彼女は、地面を踏み締める静かな足音と共に現れた姿に、息をのんで目を見開いた。

 故意に吹き荒れる砂塵は、カスティのソレとは別物だ。

 まるで懐かしさすら感じさせる、──我が子のような。


「シェハ……!」


 砂嵐が徐々に収まり、白い月の下に少年の姿がはっきりと見えた。

 鉛色の髪を揺らし、鋭い眼光で二人を睨む彼は、紛れもなくカスティの術者である。

 シェハは口元を覆っていたスカーフを片手で引き下ろすと。額に青筋を浮かべ怒号を上げた。


「こんな所で何をやっているカスティ!?」


 なぜここに、と問いかけようとしたカスティの声を封じるに、十分なほどの声量が響き渡る。先ほどから何事だと、覗く人々の視線が一斉にシェハへ注がれた。

 しかし少年はものともせずに周囲を睨みつけ、大股で二人に近寄ってくる。

 まずい。

 カスティは、状況が分からず眼前を凝視している、エゼキエルを横目に見下ろした。

 シェハはカスティの術者、つまり雇い主からの刺客だ。彼を送り込んできたと言うことは、エゼキエルを殺さない彼女に、痺れを切らしたという事だろうか。

 エゼキエルには伝えていないが、カスティの杖には特殊な魔法が施されていて、雇い主に映像が繋がる仕組みになっている。それは雇い主が、エゼキエルが確実に死去した事を確認するための策だった。

 こちらの会話が聞こえることはないが、エゼキエルが一向に死ぬ予兆もないことが、筒抜けなのである。


「おまえ、アレの命令を忘れたのか!?」


 すぐそばまできたシェハからエゼキエルを背に庇い、カスティは眉間の皺を深めて対峙する。

 シェハが相手ではカスティに勝ち目はない。造物と術者だからではなく、二人の関係性が親子であるからだ。


「忘れる訳がないでしょう。今、遂行中」

「これをどこがだ!? どうしてソイツを生かしてる!」


 シェハの指が、背後にいるエゼキエルを指し示す。

 全くその通りだ。弁解のしようもなく、カスティは首を左右に振る。

 致し方ない。正直な我が子には、正直であることが一番の得策だ。


「少し、状況が変わったの。そのために彼を生かしてる」

「どんな状況だ、説明しろカスティ」

「絆されたの」

「っはぁ!?」


 予想外にも程がある回答だろう。シェハを取り巻いていた身を切るような砂嵐が、一瞬で萎えて足元に落ちてくる。パラパラと音を立てたそれが、赤いマントを滑り落ちた。

 シェハは呆気に取られた顔でカスティを見つめ、すぐにわなわなと唇を震わせる。額の青筋が増えたのは、おそらく気のせいではないだろう。


「ふっっっざけんなバカ!!」

「ふざけてないわ」

「これがふざけてないだとバカかおまえ! 自分がどういう立場かわかってんのか? おまえの体には……!」


 微かに視界が揺れ、感情のまま叫ぶシェハの言葉が胸に刺さる。

 エゼキエルを追いかけ旅立つ時に、雇い主と交わした約束が、相手を卑下した笑みと共に脳裏へ蘇った。

 、雇い主にしか理のない約束が信用ならないことなど、少年もよく分かっているはずだ。それでも口約束に一縷の望みをかける我が子に、このような顔をさせているのは、自分母親役の責任だった。

 彼女は自身の右目を片手で覆い、口を閉ざす。言い返せないカスティに痺れを切らしたシェハが、腕を伸ばして胸ぐらを掴む。

 その瞬間、白く血の気を失った指先を、エゼキエルの片手が押さえつけた。


「話は見えませんが、ひとまず場所を移しましょう」


 突然割って入ったエゼキエルに、面食らった様子でシェハが肩を跳ねさせる。

 エゼキエルはカスティと交互に見たあと、辺りを見渡して声を潜めた。


「今この場で争って、街に騒動が広がっては困ります。明日の行事に備えて警備も厳しい。貴方はカスティの様子を見にきたのでしょう。摘まみ出されてもいいのですか」


 淡々とした口調で諭すエゼキエルに、シェハが眉間の皺を深める。

 しかし彼も、長蛇に列をなす検問を思い出したのは、渋々カスティから指先を放した。

 宿へ戻ろうと提案する彼に頷き、カスティはシェハへ視線を向けた。少年は相変わらず苛立たしげに見返すが、無言のままエゼキエルを顎で示す。

 それに胸を撫で下ろすと、カスティはエゼキエルに続き、その場から歩き出した。

 






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