ネイビーブルーの恋~1/fゆらぎ~

玲莱(れら)

第1章 出会い

第1話 春、水占い

 あと二年もすれば三十路になってしまうという絶妙な年齢になって、赤坂あかさか莉帆りほは恋人と同棲していたマンションから一人で引っ越した。彼とは高校時代の同級生に誘われて人数合わせのために参加した合コンで知り合い、何となく付き合い始めて数年が経った。特にトラブルもなかったので結婚も考えていた──けれど、彼が昇進してからの急な変化に着いていけず、別れを決意した。

 スマホに連絡を入れただけで、直接は伝えていない。話せば引き留められるのはわかっていたので彼が留守の時間を狙って、必要最低限の荷物だけ持って電車に飛び乗った。

 行き先候補で一番近いのは和歌山市内にある実家だったけれど、すぐに見つかりそうな気がしたので選択肢から外した。友人が大阪市内に住んでいるけれど、彼女は結婚しているので家族に迷惑だろうと思ってやめた。そして行き着いたのが、元彼と会う可能性が低く、且つ会社にも通いやすい奈良市内だった。

「でも良かったわ、結婚する前に本性わかって。離婚してバツつくよりは……あ、出た、お!」

 莉帆が引っ越してすぐの四月の週末、既婚の友人・笹原ささはら佳織かおりが気晴らしに花見に奈良公園へ行こうと誘ってくれた。佳織は大学からの友人ではあるけれど、年齢は一つ上だ。

 春日大社の本殿より奥の静かな場所にある夫婦大國社めおとだいこくしゃの水占いを、莉帆は以前にもやったことがある。当時は末吉でその後の恋愛はあまり良いものではなかったし、一緒に引いていた佳織は大吉が出て当時の恋人と結婚することになった。だから今回も出たものは当たるだろう、と思って挑んだ結果、莉帆は大吉を引いた。

「やったぁ! 大吉やって! 恋愛は……〝しあわせに心が満ちる素敵な恋がすぐそこに〟」

「良いやん。近くに良い人いるん?」

「……おらん」

 莉帆は大学までずっと共学だったけれど、気になって付き合った人も何人かいたけれど、就職してからは出会いがピタリとなくなった。職場に同年代の男性はほとんどおらず、目に入るのはだいたいが定年に近づきつつあるオジサンだった。だから合コンの誘いがあればできるだけ乗っていた──そして、悪い男に当たってしまった。

「おらんけど、しばらくは一人で良いかなぁ。ゆっくりしたい」

 恋人が欲しくないと言うと嘘になるけれど、莉帆は少し男性が怖くなってしまった。だから誰かに合コンに誘われても断るつもりにしているし、仕事帰りに夜道を歩かなくて良いように引っ越し先には駅近のマンションを選んだ。

「じゃあさあ、旅行しよう! 海外! パスポート十年で作ってるし、行かな勿体ないやん?」

 莉帆と佳織は大学の卒業旅行で他の友人も何名か誘ってオーストラリアに行った。二人ともそれが初めての海外だったので一緒にパスポートを作った。英語がほとんど話せないので行く前は緊張しかなかった莉帆も帰国後には少し自信がついたので、休みが取れた一年前に佳織と二人でヨーロッパのツアーに参加した。ちなみに佳織は英会話を習っていたようで英語を流暢に話すので、莉帆が困ったときは通訳をしてもらった。

「そうやなぁ。どこ行く?」

「実はこないだパンフレットもらってきたんやけど、これ良くない?」

 場所を近くのカフェに移して、佳織は鞄からパンフレットを出した。夫婦大國社を出たあとは鹿と足元鹿のフンに注意しながら少し散歩し、駅のほうに戻ってきた。

「これ、中欧。ウィーンとかチェコとか、わりとのんびりしてる感じ。莉帆、音楽好きやん? オーケストラ聴く日もあるんやって」

 佳織は莉帆が恋人と別れたと聞いてから、旅行のことを考えていたらしい。

「あと、乗り換えでヘルシンキ経由するから、marimekkoマリメッコとかムーミンとか買い物できる!」

 一年前に行ったのはオランダとベルギーで、中欧はドイツを挟んで反対側だ。ただ残念ながら、オランダとベルギーは英語が割りと通じるのに対して、中欧はあまり通じないらしい。若者は話せる人が増えているけれど年配者や地元の店などではまだまだで、ユーロEUの共通通貨も同様に国によってはEU欧州連合に加盟していても導入されていない。

「大丈夫かなぁ……英語もまともに喋られへんのに」

「なんとかなるって。日本から添乗員さん同行のツアーやし。現地集合で現地の英語添乗員さんとかやったらさすがに不安やけど」

 莉帆は佳織からパンフレットを見せてもらい、行程や出発日などを全てチェックした。諸々準備に時間がかかるので、仕事のスケジュールが調整しやすい九月下旬に行くことになった。

「去年、確か十月末から行ったから、寒かったよなぁ。真冬みたいな」

「日本より北やからなぁ。今回はちょっとだけマシちがう? 若干南やし」

 それでも北に変わりないので、服装は日本と同じわけにはいかない。飛行機はロシア上空を飛ぶので、機内も冷えるだろう。

 一年前の旅行は出発の数ヶ月前に残り枠が少なくなってから予約したのでバタバタしたけれど、今回は半年あるので準備にも余裕が持てた。通貨は前回同様に旅行会社で申し込み時に両替してもらった。ハンガリーでフォリント、オーストリアでユーロ、チェコでチェココルナ。三か国とも違うので大変だ──と思ったけれど、ハンガリーではフリータイムが無いのでユーロとチェココルナで良いだろうと申込カウンターで教えてもらい、ハンガリーのレストランで飲み物代が必要になるけれどユーロがあれば大丈夫だ、と添乗員から直接電話があった。

「あとは英語かぁ……」

 旅行前の最後の週末、莉帆は佳織と買い物がてらランチに来ていた。準備はほぼ完了したけれど、英語だけは頭に入っていない。

「でもさぁ、ホテルはともかく、田舎のほう行ったら通じへんのやろ? 私だって無理やから」

「いや、でも、飛行機で英語喋らなあかんやん? fish or meat魚と肉とどっちにしますか?とか、rice or noodle米と麺とどっちにしますか?とか聞かれるやん? 飲み物とか。佳織が寝てたら困るやん」

「まぁねぇ……」

 日本人乗務員が乗っていたとして担当してもらえる保証はないし、長時間のフライトなので隣の佳織が起きているとも限らない。最低限の英語は話せるようにしないと、莉帆が困ってしまう。

「あと台風は──」

 九月下旬は日本では台風シーズンだ。

「それは大丈夫ちゃう? 今のとこ発生してないし」

「そやな……向こうもだいたい晴れみたいやしな」

 台風のなか飛んだ経験が二人にはあった。それは国内線だったし大荒れの天気でもなかったので、無事に離着陸できたけれど、機体は常に揺れていたし、シートベルト着用のサインもなかなか消えなかった。そして台風で予定が変更になった経験もしているので、それだけはどうしても避けて欲しいと思った。

「あっ、ペットボトルのお茶もあったほうが良いよなぁ。水は買えるけど」

「そうやな。帰るまでに飲んでしまえば、空いたとこにお土産入れられるし」

 日本の水は軟水で、ヨーロッパの水は硬水だ。地元の人は飲んでいるので問題はないけれど、硬水に慣れていない日本人がそれを飲むとお腹を壊してしまう。莉帆は一年前の旅行で、レストランで注文した飲み物が足りなくなってテーブルに置かれていた水道水を飲んだ。危ないとは分かっていたけれど大丈夫だと思い──お腹を壊してしまった。

「他にないかなぁ……何か思い出したら教えてな」

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