二.

外川のデザイン事務所には、二人のスタッフがいる。外川と同じで二人とも美大出身だった。若い二人にも、将来的に外川と同じように自分のデザイン事務所を設立したいという夢がある。外川は故郷に帰ってきたのが、四年前で、今、三十後半だった。若い二人のスタッフとも、それほど世代的なギャップを感じることはない。外川は、そんなことを考える時、あの時、思い切って前の事務所を辞めて帰郷したことを良かったと思うのだった。帰郷した時は、仕事で失敗して故郷に帰って来たのではないかと心配していた両親も、今は安心している。


デザイン事務所を設立した当初、仕事を見つけるのに苦労した。自分の生まれ育った街とはいえ、仕事をするのは初めてだった。しかも、都会と違い、外川の故郷では、あまり馴染みのないデザイン事務所を設立した。街の住人は、デザイン事務所と聞いても、漠としたイメージしか湧かず、仕事の依頼も無かった。外川は街に出て、事務所の宣伝に回り、デザイン事務所とは具体的にどのような仕事をするのかを伝えた。同時に、住人―特に商業関係者―から、この街には、どのようなニーズがあるのかを聞いた。その結果、看板とスーパーのチラシのデザインをメインの仕事にすることにした。スーパーには自ら売り込みに行った。以前の事務所にいた時に手がけた仕事の資料を持参し、実績をアピールした。幾つかあるスーパーを何度も回った。最初は相手にされなかったが、その内に仕事を回してくれるようになった。そして、次第に外川のデザインは評価され、仕事が増えるようになった。看板デザインの宣伝は、『外川デザイン事務所』と自らデザインした看板を、地元の看板屋に作ってもらい、それを駅前のロータリーに掲げて宣伝した。「看板のデザインします。チラシ製作、その他、色んなデザインします」と看板に書いた。私立幼稚園の子どもの笑顔のイラストが沢山描かれた看板の隣だったので、少々、押され気味だったが、暫くすると看板デザインの依頼が来るようになった。


スーパーのチラシの仕事は、チラシのデザインを作成した後は、依頼主のスーパーが、そのデザインをチラシとして印刷する。だから、デザインを作成した時点で、外川の仕事は終わる。それに対して、看板の場合は、看板のデザインを作成し、依頼主の希望に沿ったものが出来上がったら、次は、看板を製作する業者に、外川が製作を依頼する。そして、看板が完成した時点で、彼の仕事も完了する。看板業者も外川が選ぶ。看板業者は、かつては幾つもあった。だが、今は数えるほどしかない。機械化が進んで、小さな看板業者は消えていった。時代の流れであった。外川は、看板製作は職人の仕事だという認識で、いつも同じ看板屋に依頼をしている。そこは、外川が、自分の事務所の看板を作ってもらった看板屋で、『船河看板』という老舗の看板屋だった。


スーパーに売り込みに行っている時は、外川は必死で何も考えていなかった。でも、『船河看板』に、自分の事務所の看板製作の依頼に訪れた時、彼は、本来の自分に戻っていることを知った。つまり、気さくな自分を演じていない自分に気づいた。その時、『船河看板』の人たちのお陰だと外川は思った。社長の市本と妻の規久江。二人に会って話をして、裏表のない爽やかな人柄に触れ、外川は忘れていた大切なことを思い出した。そして、二人と話す中で、かつての自分を思い出させてもらったのだと外川は思った。市本が腕のいい看板職人であることは既に知っていた。だから、自分の事務所の看板を『船河看板』で作ってもらおうと決めた一番の理由は、二人の人柄に惹かれたからだった。

看板の製作を依頼する際、外川は市本に素朴な疑問を尋ねた。

「市本さんの看板屋なのに、名前が、『船河看板』なのは何故ですか?」

「ここは、元々、私の師匠の船河の看板屋なんです。師匠が引退して私が跡を継いだから、店の名前と店主の名前が違うんです」

市本が、そう説明してくれた。

「船河さんに跡を取るご子息がいなかったんですね。そこで、一番弟子の市本さんが後継者になったということでしょうか? 」

「いや、そういうことでもないんですが……」

市本が言葉を濁した。

外川は、自分を演じなくていいことにほっとして、つい立ち入ったことまで聞いてしまったと思った。

それから、市本の案内で作業場の奥の事務所にいる先代社長である船河に会った。事務所の椅子に座る船河は、無口で頑固ないかにも職人という人だった。でも、それに臆することなく、明るく挨拶をする外川を見ると、船河も、笑顔を見せた。

船河の笑顔は、寂しげだった。

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