<35> 豚姫の帰還
タンクを一つ捨てて、歯抜けになったタンカーが、セラニアの港にやってきた。
甲板から港を見ていたヒミカは、埠頭がある程度近づいたところで、そこにぎっしりと、こぼれて海に落ちそうなくらい人が詰めかけていることに気づいた。港の建物の上にまで人が居る。
集まった人々は老若男女、身分の貴賤も問わぬ。そしてセラニアとヴェルダンテの国旗が振られていた。
既に噂が広まっている……と言うか、ヴェルダンテ公王国側が宣伝したのだろう。
タンカーが埠頭に入っていくと大歓声が上がった。
集まった人々がこのまま押し寄せてこないように、可動式の柵が置かれていたが、はて、いつまで保つのやら。
タラップが架けられ、ヒミカはそれを降りながら、軽く手を挙げて人々に応えた。
だが、皆、明らかに戸惑った様子だった。
「誰だ、あれは?」
「アンジェリカ姫はどこだ?」
ヒミカはどうにか澄まし顔を保ったが、おかしいやら脱力するやらで、頬の筋肉が引きつっていた。
船から下りたヒミカを出迎えたのは、油断ならぬ雰囲気のナイスミドルだった。
「あら侯爵様、陸路でいらしてたんですね」
「輸送が成功したなら、私はここに居る必要がありますのでな」
何食わぬ顔でそう言ったのは、公王国の港で別れた、スキエル侯爵バートラムだ。
なるほど確かにこの場面、公王国はたっぷりと成果を宣伝し、恩を売らねばなるまい。
タンカーの入港を迎える人々も、バートラムが宣伝して集めたのだろう。新聞記者らしき者の姿もある。
それを見渡しバートラムは語りかけた。
「えー……魔王誕生の予兆が告げられる中、我ら人族の団結はいっそう試されていると言えることでしょう。
窮地には救いの手を。我らヴェルダンテ公王国が、セラニア王国の皆様をお助けできたのであれば、これは何よりも喜ばしいことであります」
再び歓声が上がった。
それが静かになるまで、待ってから、バートラムは言葉を継ぐ。
「ですが此度の戦いは、公王国の力のみにて成し遂げられたものではないと、我らの名誉に懸けて申し上げねばなりません……
皆様の国の勇敢なる王女にして次期勇者候補、アンジェリカ殿下のお力添えによって、我らは悪に打ち勝ったのです」
バートラムがヒミカに場を譲った。
ヒミカは頷いて、観衆の前に進み出る。
フワレも隣に従った。王女として、勇者候補としてここに居る以上、お付きの賢者もまたここに居るべきなのだ。
「国民の皆様に謹んで、帰国のご挨拶を申し上げます。
アンジェリカ・バルテウスです」
一瞬の静寂。
そして、驚愕の声が爆発した。
「アンジェリカだと!?」「嘘だろ!」「豚姫じゃないぞ!?」「どういうことだ!?」
名乗ってもまだ信じられない者も居るだろう。
察しをつけながら、あまりの変わりように確信できなかった者も居るだろう。
分かっていてもあらためて驚きを感じる者も居るだろう。
誰も彼もが驚き戸惑い、混乱していた。
屋根の上から見ている者が転げ落ちてしまわないか、ヒミカは心配だった。
「平和節の間、国を留守にして皆様にご心配をおかけ致しましたこと、まずはお詫びさせてください。
……何故だか分からないのですが、陛下と征魔騎士団長様は、私には国元に居て欲しくなかったご様子。
お二方の計らいにて私は、勇者選定の儀までの間、ヴェルダンテ公王国へ外遊する運びとなりました次第、皆様ご承知と存じます」
どうせ王様には色々勝手に言われているのだろうから、ヒミカも勝手な説明をした。
この場で聞いている人々のほとんどは、何のことやらピンとこないだろう。だとしてもまあ、伝わるべき所に伝わればいい。
「ですが皆様がお困りとあっては、これを見過ごせませんでした。
そこで私は此度……」
頭の中で用意していた原稿に、情感を込めてヒミカは読み上げていく。
その最中であった。
「早くそこをどけ、クソガキが!
誰の命令だと思っている!」
「お、おっかしいだろ! 俺は朝からずっとここで待ってたんだぞ!」
「嫌だ、臭いし煩いわ。早くつまみ出して頂戴」
「……かしこまりました」
「がはっ!?」
穏やかならぬ声と物音に、観衆が戦く。
最前列で騒動が起こっていた。
別に席を区切ったわけでもないのだが、ヒミカたちの話を聞く聴衆の前列中央は、立派な出で立ちの紳士淑女の皆様で占められている。
だがそんな中に、土埃にまみれてすり切れた服を着た少年が混じっていたのだ。
そして彼が、最前列に出ようとした貴婦人の邪魔になったのだ。この貴婦人を便宜上『貴婦人X』とする。
護衛として貴婦人Xが連れてきた家臣だろう、軽装の騎士が少年を引っ掴み、腹を殴りつける。
そして脇に引きずっていって、転がしたのだ。
「犬は躾ければ言うことを聞く。
犬にも劣るなら家畜にすらできぬぞ」
「……う……」
騎士はあろうことか、剣を抜いた。
「そこ。何をしているのです?」
ヒミカは(淑女にあるまじき動きだが)つかつかと、肩を怒らせる勢いで向かっていく。
「あ、ああ。殿下が気に懸けられるほどのことではございません。
このガキが聞き分けの無いことを申しますので、少し、秩序についてのお話を」
騎士は戸惑いつつ弁明した。
戸惑いの理由はまず、王家ではなく貴族家の家臣たる下級騎士にとって、第二王女アンジェリカはお目通りも恐れ多い雲の上の相手だから。
そして……ヒミカが何を問題視しているかまるで分からなかったからだろう。
ヒミカは、騎士が振り上げた剣を素手で掴んだ。
そして、握りつぶし、へし折った。
「ひっ!?」
「秩序とは、無抵抗の者を剣で脅すことですか?」
折れた剣の欠片が地に落ちた。
「アンジェリカ様!」
そこで割って入ったのは、最初に少年を追い払った貴婦人Xである。
腹を殴られて傷つき倒れた少年も、それどころか自分が連れてきた護衛の騎士さえもそこに存在しないかのように無視し、歓喜の声を上げてヒミカに寄ってくる。
「私、あなた様のお帰りを誰よりもお待ちしておりましたわ!
このセラニア王国に、あなた様という太陽が…………」
貴婦人Xは何か言おうとしたが、今それはヒミカにとって極めてどうでもいいことだった。
倒れた少年の傍らに跪き、無事を確かめつつ声を掛けた。
「やあ少年、久しぶり」
「ほ、本当に……ヒミカねーちゃんが、アンジェリカ様だったんだな……」
「へっへっへー、バレちまったか」
「見てくれよ! ほら、あのとき狼に食われた傷! きれいに治ったんだ!」
「あら、おめでとう。よかったわ!」
少年は服をめくり上げ、脇腹を見せる。
彼は半年とちょっと前、巡礼団と共にヒミカが立ち寄った農村で、狼の魔物から助けた少年だった。
この年頃の子どもは成長も早い。
生意気坊主は少し背が伸びて、少し大人びていた。
「ヒミカねーちゃんが抹茶を持って来るんだって聞いて、俺、どうしてもお出迎えしたくて、父ちゃんにすっげーお願いして、来ちまったんだ」
「うんうん。ありがとうね」
「ちょ、ちょっと殿下!?
そんな汚い野良犬のような子どもより……」
貴婦人Xが裏返った悲鳴のような声を上げた。
咎めるような色があった。自分を無視して汚い庶民に声を掛けるなど、相手が王女といえども咎めるべきマナー違反で、最大級の侮辱なのだろう。
ヒミカは、本当は振り返るのも嫌だったが、肩越しに貴婦人Xを見て、彼女の声音を真似た。
「『また随分と酷く肥えたものよな』『あはは、ご覧になって、あの顎周りのお肉』」
「ひっ!?」
貴婦人Xは、ヒミカが口にした言葉の意味を察して蒼白になった。
それは、他ならぬ彼女が、練兵場での『訓練』を見物に来てヒミカに投げかけた言葉だった。
ヒミカは、誰が何を言ったのか覚えていた。
名前など知らないし、聞いても覚える価値すら無いと思ったが、顔だけは覚えていた。
「よく覚えてましたね」
「恨みは忘れないのだ」
感心したのか呆れているのか、フワレは何とも言いがたい表情だった。
「あ、あれは、その、ごめんあそばせ。
そう……言わなければならない空気だったのよ、分かるでしょう!?」
「状況が変わったら即座に媚びに来るか。
まあ、それは賢いし、謝りに来るだけ他の奴よりマシだと褒めてあげましょう」
しどろもどろに貴婦人Xは弁明する。
神経を逆撫でにすらされなかった。ヒミカが感じたのは、無であった。
「でも、心根の卑しいお友達は要らないわ。
……おとといきやがれ。これ以上私の前で口きいたら、海に放り込まれたいものと見なす」
ヒミカは貴婦人Xの眼前に、低評価サインを突きつけた。
貴婦人Xは物理的に殴りつけられたかのように仰け反り、震え上がって腰を抜かした。……彼女が自分の足で再び立ち上がれたのは一ヶ月後だったという。
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