第3話 十歳──魚の尾

〈8〉

〈8〉 ①

 五年生に上がると、またクラス替えがあり、雪野さんとは別のクラスになりました。

 とはいえ、その頃の雪野さんはほとんど学校に来ていませんでした。

 コンビニ前に置き去りにした日から数週間の間は、妙に明るく「優しいお姉さんを紹介してくれて、ありがとう」などと話しかけられました。強がっていたのか、ヒロムやリナが優しく接していたのか、歩にはわかりません。

 歩が、雪野さんを完全に無視していたからです。

「ねえ」と雪野さんが強ばった笑みで、強引に歩の腕をつかんだのは、それから二月ほど経ってからでした。雪野さんは内緒話をするように歩に身を寄せます。

「一緒に、ラーメン屋さんに行かない? おごってあげるから。隣の校区にあるラーメン屋さんのおっちゃんがね、ダイエットに効くお薬をくれるんだって。凄く効いて、凄くきれいになるんだって。おかぁさんへのプレゼントとかにも、いいんじゃないかな?」

 ねえ、としつこく絡んでくる雪野さんを、一度は無視しました。でも、すぐに思い直して足を止めます。

「それって」と真正面から雪野さんを見つめ返しました。「わたしが太っていて不細工だってこと? だから誘ってるの?」

 え? と目を瞬かせた雪野さんは、次の瞬間には青ざめていました。「え」と声を漏らし「違くて……」と口ごもる彼女は、もう以前のどんなことでもはっきりと口にする、好奇心だけで行動する生き物ではありませんでした。

 歩は雪野さんの変化にちょっとした満足感を覚えて、ゆっくりと彼女の腕を振りほどきました。

 もごもごと言い訳を続ける雪野さんを、また置き去りにします。

 雪野さんがクラスメイトに「ダイエットに効く錠剤」を売りつけようとして先生に呼び出されたのは、それからすぐのことでした。

 もっとも雪野さんは終りの会でクラスメイトたちに告発されたわけではなく、誰かの保護者から学校へ密告されたので、歩のところにその噂が流れてきたころには雪野さん本人はほとんど学校へ来なくなっていました。

 だから、正直に言えば、五年生になった歩はしばらくの間、雪野さんとクラスが別れたことにすら気づいていませんでした。


 母が浴衣を持って帰ってきたのは、歩が小学校五年生になった七月でした。

 相変わらず短パンに半袖シャツ、短すぎる髪という男の子のような格好でしたが、もはや歩は気にしないことにしました。

 父が歩に買い与えてくれる服のことごとくが、そうなのです。父や母が切りそろえる髪は何度頼んでも、いつだって「うっかり」切りすぎるのです。

 両親は男の子がほしかったのだ、と歩は理解し始めていました。

 だから、母が浴衣を広げて見せてくれたときは驚きました。

 ひらひらと尾を閃かせる金魚が白地を泳いでいました。金魚はグラデーションになっていて、動く度にまるで生きているかのように色合いを変えていきます。黄緑色の兵児帯も一緒でした。

 初めての浴衣でした。女の子らしい鮮やかな色彩に心が躍ります。

「主任が、アンタにって」

 気難しい女性教諭が浮かびました。母を待つ夜の高校で歩を見かけるたびに、母ともども歩を咎めていた甲高い声が耳に蘇ります。

 とはいえ、歩が四年生の半ばからひとり留守番することを許されるようになり、母が夜勤の日には学習塾の自習室で過ごすように言いつけられてからは、会う機会もありません。それでも、あの女性教諭は歩を嫌っていたはずです。

 こんなに可愛く綺麗なものをくれる理由がありません。

 同じ疑問を抱いているのか、母も顔を曇らせていました。でも。

「わたしが、アンタに浴衣の一枚も買ってあげられない生活をしているように見えたのかな」

 母の不安は、別のところにあったようです。

「わたしはアンタに、そんなに……浴衣貰わんならんほど、汚い格好をさせてる?」

 母に恥ずかしい思いをさせてしまったのだ、と歩は申し訳なく思います。きれいな金魚に浮かれていた気持ちが急速に縮んでいきます。なにか言わなければと焦るばかりで、母を慰める言葉はひとつだって浮かんできません。

 歩は自分が情けなくなります。乾燥して粉を吹く膝頭を両手で覆い隠します。

「お祭り、行こうか」

 ため息めいた母の言葉を一瞬、聞き逃しました。

 え? と顔を上げると、穏やかな母の横顔があります。怒っているわけではなさそうな雰囲気に、ホッとしました。

「お祭り、行こうか。今度の土曜日に。それ着て。下駄、買わないと、ね」

 母の唇から、ぽろぽろと言葉がこぼれていきます。

 女の子なんだから、と独り言のように、母は付け足しました。

 まるで今、この瞬間に歩が女の子になったような腑抜けた語気でした。母は本当に、歩が男の子だと信じていたのかもしれません。

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