〈2〉 ④

 福留は困ったように眉を寄せて笑っていました。

 そんな様子を気に留めることもなく、六堂は保険証を直接ジャンパーのポケットに入れます。ゆっくりと立ち上がった六堂は「歩ねぇ」と疲れたようにも呆れたようにも聞こえる声を降らせます。

「徳の高い名前やねぇ。平田くんが付けたんか?」

「わかりません」と答える歩の頭の中には、スーパーに貼られている「特売」の字が浮かんでいました。「とくが高い」とは、良いことがたくさん起こりそうな名前ということだろうか、と歩は想像します。

「『犀の角のようにただ独り歩め』いう仏陀の言葉や。仏陀、知っとぅか? ゴゥダマ・シッダールタ。王国と妻子を捨てて出家した男や。今では釈迦牟尼いう名前のほうが知られてるわなぁ」

 息苦しさを覚えました。六堂の静かな語りに異様な威圧感を覚えます。

 なによりも、王国と妻子を捨てた、という言葉に、反射的に歩は母と自分を重ねていました。家に居ない父、母と歩のふたり暮らし、仕事場で大人たちを従える王様然とした、名字の違う父。

 父は歩を捨てる前提で、歩という名をつけたのでしょうか。

「妻子を捨て、父子を捨て、財を捨て、血のつながりも捨て、全ての欲望を捨て去って、犀の角のようにただ独り歩め」六堂は歌うように続けます。「そう説いて回たおかげで、いまや誰もが知る仏教の祖や」

 不吉な予感がして、歩は逃げ道を探します。このまま六堂に話の主導権を握らせてしまえば、せっかく普通だと認められた父を、自分自身の家を、またオカシイと思ってしまいそうでした。

「……犀って、サバンナにいるサイ?」

「いやぁ、仏陀やし、たぶんインドに居るやつやろ」

 確かにインドサイの角は一本きりです。仲間同士の闘争に使われることもなく、ただそびえるだけの角のように、独りで生きろという名なのでしょうか。けれど。

「あの角が漢方や工芸品に使われるから、サイは絶滅の一歩手前まで狩られたんでしょう?」動物番組から得た知識でした。「あの角さえなければ、サイはもっとたくさん生き残っていたはずなのに」

「犀の角は嫌いかぁ?」

 孤独は厭か? と訊かれた気がしました。うまく友達を作れていない自分を見透かされたような気恥ずかしさがこみ上げます。喉にぐっと呼吸がつかえました。反論したいのに、なにも思いつきません。

「まあ、なんもかんもを捨てる必要なんかないけどな」

 六道は歩の頭の上に掌を載せると、ぐっと体重を掛けて屈み込みました。入れ歯の金具が目立つ口がゆっくりと、歩に囁きます。

「悪いモンと楽なモンには、惹かれるやろう? 羨ましぃ感じるやろう? ほれ、体にええ母ちゃんのご飯ばっか食べとると、無性にジャンクフード食いとぉなるんとおんなじや。気張って勉強しとる机に漫画あったら読みとぉなるやろ? 体にええモン食べてしっかり勉強するか、食べたいモンばっか喰うてだらだら遊んで暮らすか、決めんのは自分やしな」

 オープニング曲しか知らないアニメが、甘ったるいサイダーの味が、父と食べに行こうと約束したラーメンの脂っぽさが、テレビの中で全裸になっていた女の人とそれを視ていた女の子とが、ぐるぐると歩の中で渦巻きます。

「まあ」と六堂は体を起こして、歩の頭から手を退けます。「おっちゃんは後者を選んで来たんで、偉そうなこた言えんわな」

 ほな、行ってくるわぁ、と六堂は部屋を出て行きます。他人の名前が書かれた保険証で、痛む背中を看てもらうのでしょう。

 歩はノートを閉じて、表に書かれた自分の名前を指で辿ります。母がマジックで書いてくれたフルネームです。

 由代 歩(ゆしろ あゆむ)

 学校で習っていない漢字は使ってはいけない決りでした。他の子たちにも読めるように、ひらがなで書いてください、と担任の先生から注意された結果、カッコつきで読み仮名が書き足されました。

 父の名字は、平田です。母の名字が、由代なのです。

 歩という名は父がつけてくれたのだろうか、と歩は少しばかりの期待を抱きます。

 母の名字と父が付けてくれた名前が歩を示すのならば、それはとても普通の子供のあり方のように思えました。

 普通に父と母とが一緒に暮らす家を想像します。みんなが視ているアニメを普通に視られる自分を妄想します。お菓子とジュースを傍らにテレビを眺める自分の背を、遠くから眺めてみます。妄想の中のテレビには、全裸の女の人が両脚を広げて転がっていました。

 クラスの彼らは確かに、母が言うとおり「テレビを視ないと付き合えないような、レベルの低い子」たちでした。歩は、それが羨ましかったのです。同年代の子供たちがジャンクフードにかぶりついているのを遠くから見詰めているときと同じ気分になるのです。自分に禁じられていることが、たまらなく魅力的に思える瞬間があるのです。

 それは自分の名前に反する──父の望みを裏切る感情なのかもしれません。

 六堂が座っていたソファーが白く、濁っていました。彼の服から砂だか埃だかが移ったのでしょう。

 歩の視線に気づいた福留が、床に膝を突いてソファーを拭います。黒々とした革の艶めきが戻ってきます。

 歩は自分の名前が記されたノートを開きます。「六」に「りく」とふりがなを振ったページにたどり着くと、おもむろに消しゴムを掛けます。力が入りすぎたのかぐちゃっとページが破けました。構わず、六を消し去ります。自分の中に生まれた羨望を、一緒くたに消しゴムかすに包み込みます。

「あんな人ですけど」歩の向かいに座り直した福留が、困ったように笑います。「ウチの相談役なんです」

「……偉い人なの?」

「そうですね」

「お父さんより?」

「お父さんの相談相手ですよ。どうやったら会社が一番儲かるかを考える人です」

「お父さんの会社はなにをしている会社なの?」

 数秒、福留は黙りました。六堂が出て行った扉を窺い、床を──階下のフロアを一瞥し「あーっと……」と無意味な呻きを挟んでからようやく「ひと、だす、け?」といまいち自信がなさそうに答えます。

「えっと……お金がなくて困っている人に、すぐにお金を貸してあげる会社です」

「銀行みたいなもの?」

「銀行はほら、審査が入るじゃないですか」

「審査?」

「貸した金額を返せるほど働いている人かどうか、お金が返せなくなった場合は土地とか家財とかを売り払ってでも貸したお金を回収できるかどうか、貸す前に調べるんですよ。だから金を借りて、札束を握るまでには時間がかかるんです。でもウチは身分証を預けてもらえればすぐに貸せるんです。本当に困っている人が最後に頼るのがウチです」

 ふうん、と歩はぐちゃぐちゃになったページを両手で伸ばしてから「わたしのお父さんは」と記します。

「坊ちゃん」福留の大きな手がノートに下りてきて、歩の字を覆い隠しました。「これ、学校に提出するやつですか?」

「うん」

「お父さんの仕事について、発表するんですか? 授業で?」

 発表するのは、歩が行けなかったスーパーの店員さんのインタビューと決まっていましたが、歩は「うん」と嘘を吐きます。クラスメイトに父の仕事を知ってもらえれば、歩の家が「そういうおウチ」ではないことが──普通の家庭であることが、理解してもらえるはずなのです。

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