リトル・フィンガー/ガールズ

藍内 友紀

〈0〉

 序

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 事務所の隅から、極彩色の仁王像があゆむを睨み下ろしていました。歩の握る匕首長ドスを咎めているのかもしれません。

 天井近くには榊の供えられた神棚が据えられています。神棚の前に置かれているのは、小指が詰まったカップ酒の瓶です。注がれている焼酎は薄黄色く濁っていました。ちらつく蛍光灯のせいか、それぞれが眩暈でも覚えているかのように輪郭を揺らがせています。

 立ち尽くす歩の前には、女の人が転がっています。下着姿でびょうびょうと掠れた呼吸を繰り返しています。腫れ上がった顔と折れた歯で容貌は判然としません。さなえの──歩の唯一の友人であるさなえの、母親でした。歩は彼女の「響子」という芸名だけを知っています。それが本名かどうかを尋ねたことはありません。

 怠惰に流れた腹の肉が、赤茶色くべたついていました。胸の下からあふれ出す血でレースの下着が染まっています。それなのに、女は寝惚けたように顔を緩ませていました。苦痛の気配はありません。

「来たの」

 事務所の奥から、さなえの声が聞こえました。開け放たれた扉の向こう、応接室を兼ねた社長室から出てきた少女が──さなえが、セーラー服の肩で億劫そうに頬を拭いながら出てくるところでした。床に転がる彼女の母親と同じように顔は腫れ上がり、前歯は折れています。そのくせ両腕に抱えられるだけの札束を抱えているのです。体のいたる所を庇っているのか、油の切れた機械のような歩き方をしていました。

 痛々しさに、歩は両手を胸の前で組み合わせます。危うく、握ったままだった匕首長ドスの刃が顎先を掠めました。小学校卒業を控えた歩には大きすぎる凶器です。血をまとった刃が、仁王像に似た輝きで事務所の惨状を写しています。

 さなえは倒れた母親に一瞥をくれることもなく、抱えた札束を事務机の上に置きました。雪崩を起こした札束の中から何枚かが床へと滑っていきます。

 力なく横たわっていた響子が、弾かれたように飛び起きました。あっちこっち好き勝手な方向へ折れ曲がった指で、札を追いかけます。指が動かないせいか、まるで羽虫を仕留めるように両の掌で札を留めては、大事そうに胸元に掻き抱きます。血だらけの手と胸に捕らえられた札は、見る間に黒く汚れていきます。

 響子の肘の内側や手の甲、さらには足首や足の甲には斑な内出血が散っています。長年にわたって摂取し続けた薬物の──注射の痕でした。腹を刺された痛みすら感じないほど、彼女はクスリに溺れていたのです。

 そんな母親に視線をやることもなく、さなえは札束を学生鞄に詰めていきます。彼女の高校で指定されている鞄でした。教科書が一冊入ればもうノートすら入る余地がないほど平べったく潰されています。

 さなえの平べったい鞄に鉄板以外のものが入っている光景を、歩は初めて見ました。工事現場でくすねてきた分厚い鉄板仕込みの学生鞄は、手に提げていられないほど重たいのです。だから、さなえは大抵それを脇に抱えていました。

「振り回せば武器に、掲げれば盾になるだろう?」と答えたさなえを、思い出します。一緒に回った夏祭りの喧噪が鮮やかに蘇ります。

 さなえに連れられて知った煙草の火の明滅、特攻服の紫と金銀の刺繍、罵倒と笑い声とバイクのエンジン音。そういう華々しい記憶が連鎖的に押し寄せます。

 五年前、歩がまだ小学校一年生でなにもわかっていなかったころ、一番なにも考えずにいられたときに、ふたりは出逢いました。

 唐突に、札を集めていた響子が跳ねました。体を弓なりにして手足を突っ張り、陸に打ち上げられた魚のように暴れ回ります。勢いよく頭を事務机の脚にぶつけ、床に直接置かれたテレビにしがみつきます。甘ったるい嬌声が再生されました。一拍遅れてザラついた画像が浮かび上がります。

 画面の中で女が──響子が男に組み敷かれていました。破れたストッキングの穴から脚の肉を盛り上がらせて、真っ赤に熟れた唇から忙しなく息を吐きます。乱暴に腰を振る男に合せて、女の声が高くなります。

 さなえの母親である響子でした。今、腹を刺されてのたうち回っている響子の、数年前の映像でした。

 初めてさなえと出逢ったとき、さなえはこの映像を視ていたのです。当時、中学生であったさなえの仕事は、母親が出演するアダルトビデオに規定通りのモザイクがかかっているかをチェックすることでした。

 そういう出逢いでした。

 自分の痴態を映し出すテレビの横で、響子がひときわ大きく跳ねました。大きな一呼吸の後、響子の体は床に沈みます。痙攣が、冬の朝に震える子鹿のように小刻みなものになっていきます。

 死が近づいていました。さなえを守るべき最後の大人の死でした。

 そう思ってから、違う、と歩は内心で首を振ります。

 さなえの母親は一度だってさなえを守りませんでした。少なくとも歩が知る限り、この女はさなえに寄生して生きていました。

 ならばこれは、さなえの解放なのです。

 ひょう、とさなえが息を吐きました。前歯の隙間で笑ったのかもしれません。

 歩はさなえの手を取ります。小指が半ばまで千切れた左手を、右手で絡めとります。ふたりでひとつの祈り捧げるように合せた掌の間を、ねとねととした血が埋めていきます。

 ああ、そうか、と歩は理解します。どうして自分がここまでさなえに拘るのかを、頭ではないどこかで感じとります。

 ふたりともが歪んでいるのです。パズルのピースのように、あるいは対極図の陰陽のように、歪んだままぴったりと噛み合う相手を求めていたのです。うまく噛み合わないのならば相手を削り取ってしまおうと思うほどに、ただただ相手がほしいのです。

 もうお互いしかいない。要らない。そう思い合えている。その事実に歩は震えます。狂気に近しい歓喜が湧き上がりました。

 求められることは救いなのです。呪いじみた、救済でした。

 たった五年の間に、ずいぶんと薄暗いところに来てしまった、と歩は笑います。声もなくただ唇をひん曲げます。

「大丈夫」歩は甘く囁きます。「一緒にいよう」

「嘘つき……」

「嘘じゃないよ。約束しよう」

 仔猫が甘えるように、幼稚園児が好きな男の子をこっそり教えあうように、そのくせ男の子なんかに相手を盗られることなど考えたこともない身勝手さで、肯き合います。

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