4 言葉を交わしたいと思って、何の不思議がある?
王都を出て八日後。セレスティア達は道中、何事もなくラグノール領を治める侯爵の館に到着した。
神から遣わされた六つの聖杯は、オルディアン王国の各地の神殿に納められている。
新王一行が最初に向かった先は、王都から二つ目に遠いラグノール領の神殿だった。
なぜ二つ目に遠いラグノール領かといえば、最も遠い聖杯は、宰相ネベリスの所領のものであり、アレンディスが国王の庶子として表舞台に現れてすぐに、魔力をそそぎ終えているためだ。
アレンディスが祈りとともに魔力を捧げ、聖杯から十数年ぶりに金の光があふれ出したさまは、『希望の新王の最初の奇跡』と各領で吟遊詩人達に歌われているらしい。
国王一行を迎えたラグノール侯爵は下にも置かぬ歓待ぶりだった。
「アレンディス陛下! このたびの『聖杯の御幸』、どれほど感謝しても足りませぬ……っ! この日が来ることを、何年待ちわびておりましたか……っ!」
五十歳くらいの温厚そうなラグノール侯爵が、息子よりも若いアレンディスの前にひざまずき、感極まった声で謝辞を述べる。
「どうか立ってくれ、ラグノール侯爵。『聖杯の御幸』は王として果たすべき当然の務め。いままで何年も訪れていなかったことを前王に代わって詫びよう」
端整な面輪に慈愛の笑みを浮かべ、アレンディスがラグノール侯爵の手を取る。
「なんともったいないお言葉でございましょう……っ!」
ラグノール侯爵の声が潤み、周りでひざまずく配下の貴族や従者達からも、思わずといった様子で感嘆の吐息や言葉が洩れる。
感動的なこの光景も吟遊詩人達によって広められ、アレンディスの名声をさらに高めるに違いない。
血筋の正統性が前王に劣るなら、その分、貴族達と民の支持を集めればよい。セレスティアにはネベリスの考えが手に取るようにわかる。
侍従としてアレンディスの後ろにひざまずくセレスティアは、自分の斜め前、アレンディスの後ろにひざまずくネベリスの様子をちらりと
予想どおり、ふだんは冷徹な表情を崩さないネベリスがうっすらと満足げに笑んでいた。
この八日間の旅の間、ずっとネベリスの馬車に同乗していたが、ネベリスが笑ったのを見たのは、これが初めてだ。見ていて、これほど心和まない笑みも珍しいが。
その点、見目麗しいアレンディスが浮かべる慈愛の笑みは完璧だ。
完璧に整いすぎて――自分を偽ってまで、『希望の新王』を演じているのではないかと、思わず危惧してしまうほどに。
ふとそんなことを思ってしまった自分に、セレスティアは内心で驚く。
いったい、自分がアレンディスの何を知っているというのか。
旅の間、セレスティアはずっとネベリスの馬車に同乗していたため、食事の時などにアレンディスに給仕をしたり、荷物の中から衣服を整えたりする程度で、言葉を交わしたことなどないに等しいというのに。
見惚れるような笑みを浮かべ、アレンディスが礼儀正しくラグノール侯爵へ告げる。
「ラグノール侯爵。顔を上げてくれ。礼はどうか、明日わたしが無事に『聖杯の儀』を終えた時に」
アレンディスの言葉に、ラグノール侯爵がさらに深く
「明日の大切な儀式を控えた陛下をいつまでもお引き留めするわけにはまいりませんな。どうか、本日は我が屋敷でごゆるりとおくつろぎくださいませ」
恭しく侯爵が告げ、アレンディスが頷いたのを皮切りに、にわかに周りが騒がしくなる。
ラグノール侯爵家に滞在するのは二泊だけとはいえ、国王が滞在するのだ。それなりの荷物が馬車で持ち込まれている。また、新王への心象をよくしたいラグノール侯爵も歓迎の準備は万端だろう。
予定では今日の午後は旅の疲れを癒し、明日の午前中に神殿にて『聖杯の儀』を執り行うことになっている。『聖杯の儀』のあとは夕刻に祝いの宴が開かれ、明後日の朝には次の聖杯へと出発する日程だ。
強行軍だが、予定どおり順調に進んでさえ、すべての聖杯を巡るには一か月以上かかってしまう。
まだ即位して間もないアレンディスが長く王都を空けるわけにもいかないが、新王アレンディスこそが国王としてふさわしいと示すために、『聖杯の御幸』はなんとしても成就させねばならぬ義務だ。
だが、未だ前国王派を根絶やしにできていない現状で長く王都を不在にすれば、そこにつけこまれるかもしれない。
おそらく、今回の旅程はそうした思惑の中でぎりぎりの日程で組まれたものに違いない。
ネベリスの馬車は上等で乗り心地はよかったが、ろくな休憩もなく走りどおしだった八日間の旅は、旅などほぼした経験のないセレスティアには、体力的にかなり厳しいものだった。
だが、セレスティアに泣き言など許されない。
可能ならいますぐ寝台に飛び込んでゆっくり休みたいが、いまのセレスティアは公爵令嬢ではなく、アレンディスの従者なのだ。アレンディスが休んでよいと解放してくれるまでは休むことはできない。
ラグノール侯爵が自らアレンディスを案内し、セレスティアはもうひとりの従者であるラソルとともに後について行く。
ラソルは二十代半ばの生真面目そうな顔立ちの青年で、元々はネベリスに仕えていたらしい。
ネベリスの
「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。何か必要なものがございましたら、すぐにわたくしに」
屋敷の中で最も上等だろう客間にアレンディスを案内したラグノール侯爵が恭しく挨拶して出ていくと、入れ違いに若く美しい侍女が茶器や菓子が乗った銀の盆を運んでくる。
「二人分を」
テーブルについたアレンディスが、侍女に短く指示を出す。
「か、かしこまりました」
一瞬、ぽぅっとアレンディスの顔に見惚れた侍女があわててもうひとり分の茶器を用意し、一礼して出ていく。
てっきりセレスティアは明日の打ち合わせにネベリスが来るのだと思ったのだが。
「セス、こちらへ。ラソル、きみはネベリスの手伝いをしてきてくれ」
まさか、自分の名前が呼ばれるとは思わず、セレスティアは固まる。
驚いたのはラソルも同じだったらしい。
「陛下っ!? 急にどうなさったのです!?」
セレスティアは落ち着いているところしか見たことがないラソルが、目を瞠って声を上げる。だが、アレンディスは落ち着き払ったものだった。
「セスが侍従とはなったものの、翌日から『聖杯の御幸』に出たせいで、ろくに話せていないだろう? ようやく落ち着いて話せる時間を得られたのだ。少し言葉を交わしたいと思って、何の不思議がある?」
「ですが……」
ラソルの視線がアレンディスとセレスティアの間を行き来する。ラソルがアレンディスを
アレンディスが笑顔の裏で何を考えているのかは知らないが、正体を隠して仕えている以上、アレンディスと接する時間は極力減らしたい。
従者でありながら、セレスティアが道中ずっとネベリスの馬車に乗っているのも、ネベリスもセレスティアとアレンディスの接触をできる限り減らしたいと考えているからに違いない。
「……明日の『聖杯の儀』のことを考えるなら、いい加減、セスと話しておかねばならんだろう?」
笑みを消したアレンディスが、ラソルが言を継ぐより早く、低い声で告げる。
「っ!?」
息を呑んだセレスティアの隣で、ラソルが諦めたように吐息した。
「……かしこまりました。では、わたしはしばらくの間、席を外します」
ちらりとセレスティアに物言いたげな視線を向けたラソルが、一礼して部屋を出ていく。
セレスティアは己の顔が強張るのを感じながら、無言でアレンディスの端整な面輪を見つめた。
ネベリスからは、アレンディスにはセレスティアのことは前国王の庶子のひとりだと説明していると聞いている。
だから、大丈夫だ。変装だってちゃんとできている。セレスティアの正体がばれるはずがない。
心の中で呟き、緊張にばくばくと騒ぐ心臓をなんとかなだめようとする。
きっと、セレスティア以上に不安に思っているのはアレンディスだ。セスの人となりなどを確かめたいと考えても、当然のことだろう。
――いまのアレンディスは『聖杯の儀』を無事に執り行えるか、定かではないのだから。
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