第8話 死に戻り令嬢と信託の前日

「──うっ」


 胸をぐっと押さえつけられるような苦しさと、強烈な全身の痛みに呼吸が止まる。頭が潰れそうなほど引き攣れる。圧迫されて、肺が膨らまない。体内の空気が薄れ、きーん、と、耳鳴りがしてくる。呼吸ができずに時間が過ぎるにつれて姿勢が保てなくなり、ゆらゆらとかがみこむと、頭上から、よく知る声がした。


「姫さまっ? いかがなさいましたか」


 古参の侍女、ロラの声だ。ぎゅうっと固くつぶっていた目を開ける。ヴィオレータは見慣れた自室の鏡台の前にいた。ロラに髪を梳かしてもらっていたところだったと思い出し、とたんに息ができるようになった。同時に、まったく感じなくなった苦痛に首をかしげる。


 ヴィオレータは王城の牢にいたはずだ。昨晩、牢内のベッドで眠りについたことは、まるでつい先程のできごとのように生々しく覚えている。それなのに、なぜ、自分は自宅にいるのだろうか。


 牢に入れられたことも、ミュリエルの存在も、すべてが夢だったのかと思いながら、目の前に開けられた宝石箱を漫然と眺める。


 今日は、どのような予定だったか。予定に合わせて髪を結い、飾りを選ばなければならない。気乗りしなかったが、箱のなかに、三年前、王太子と婚約したころに妹へ譲ったはずの髪飾りをいくつも見つけて、ヴィオレータの頭はすうっと冴えていった。


 ──まるで、時を遡ったみたいだわ。


 三つ年上の王太子につりあうようにと、婚約が決まってまもなく、ヴィオレータは衣装や装飾品を整理させられた。いま、宝石箱の中央に置かれている髪留めは、特にお気に入りだったものだ。デフォルメされた色とりどりの小花があしらわれている。淡色の小粒の石でかたどられた小花は、薄明かりにもキラキラして可愛らしい。


 あどけなさを感じさせるからと、母や侍女頭からダメだしされた品だ。身につけるものの子どもっぽさは侮られる原因になりかねない。婚約者が侮られれば、王太子の評価にもかかわると諭され、泣く泣く妹に譲り渡したことは、くっきりと記憶に残っていた。


 数々の品物を、わざわざ妹が返してよこすとは思えないし、そんな記憶はなかった。


 ──少なくとも、婚約の前まで、時が戻っている?


 そのように荒唐無稽なこと、にわかには信じられなかった。ヴィオレータは、さりげなくロラに声をかけた。


「今日はどなたの日だったかしら」

「聖エバの日でございますね」

「あら、では、暖かくなるかもしれないわね」


 『聖エバは小さな春をつれてくる』ということわざがあるとおり、冬にも関わらず、聖エバの日のころには厳しい寒さが一度和らぎ、暖かい日になることが多い。ヴィオレータのことばに、鏡のなかでロラは笑った。


「さようでございますね。過ごしやすうございますが、あんまり日が出ますと、姫さまの楽しみにしておいでのスケートは、明日ではないほうがよろしいかもしれませんわ。池の氷が溶けてしまいますもの」

「まぁ、それは困るわ!」


 ふたりでころころと笑いあい、ヴィオレータは髪を結ってもらいながら、思考に沈む。


 三年前の聖エバの日は、とても暖かくて、上着も要らないほどだった。そのおかげで、翌日に予定していたスケートは延期になった。しょぼくれて家で過ごしていたヴィオレータたちのもとに、王宮にいた父から内密に知らせが届いたのは、昼下がりのことだ。届いた手紙には乱れた文字で、救国の乙女に関する神託がおり、その条件にヴィオレータが該当すると書かれていた。


「今日は少し外に出てみようかしら。馬車を用意させてちょうだい」

「どちらまでおいでになりますか?」

「これから決めるわ。外出前にもう一度着替えるから、いまは楽な服がいいわね。水色の、腰に大きなリボンがふたつついたドレスを着るわ」


 髪飾り同様、婚約時に処分したドレスを念頭において希望を口にする。時が戻ったというのがヴィオレータの思い違いならば、あるはずもないドレスだ。だが、ロラは驚きもせずに下女にドレスを持ってくるように言いつける。


 その姿を見て、ヴィオレータは確信した。やはり、神託を受ける前日に戻ってきたのだ。なぜ、と、考えてもわかりそうにない。そんな事例は聞いたことがなかった。ただ、先刻のあの苦しみが三年後の自分に起きていたものだったとしたら、きっとヴィオレータは、なんらかの理由で呼吸ができなくなったに違いなかった。そして、たぶん、死んだのだ。


 くびり殺されたというよりは、麻痺毒か、圧死か。いずれにせよ、窒息したのだと思う。それほどの苦痛があった。


 王太子の婚約者としての責務に追われ、救国の乙女を詐称したと言われ、牢に入れられ、命が尽きた。補佐の仕事は新しい知識に触れられることが多く、好奇心旺盛なヴィオレータには向いていた。有り体に言えば、かなり楽しかったが、別に王太子妃の座に未練はない。そんなもののせいでまた死んでしまうのは、まっぴらだ。


 神託がおりるのは明日。それまでに、どうにかして、救国の乙女にならない方法を──


 そんな方法、死ぬか国外逃亡しか思いつかない。いや、違う。逃げるべきは、神託ではない。ひらめいた突拍子もない思いつきに、ヴィオレータは目を大きく見開いた。


 ──神託よりも先に、だれかと結婚してしまえばいいんだわ!


 婚約では、王命に対抗できない。ヴィオレータの相手がだれであろうと、王太子より尊い身分の婚約者などない。かんたんに解消させられてしまうだろう。だが、神前で、きちんと誓いあった結婚ならば、たとえ国王にだって覆せない。なんといっても、ドゥルセトリゴは、神託ひとつで次期国王の婚約者が決まる国なのだ。


 そうと決まれば、ヴィオレータの取る行動はひとつきりだ。できるかぎり迅速に結婚できる相手を見つけ出し、神前に引きずっていく。


「ロラ。やっぱり、はじめから外出着にするわ。わたくしにいちばん似合うものをお願い」

「まぁまぁ。姫さまはなんでもお似合いでございますわ。でも、そうですわねぇ……」


 楽しそうなロラのそばで、ヴィオレータは戦いに挑む騎士のような心地で策略に頭を巡らせていた。

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