第5話

 週が開けると、申請と更新の業務もやるようになった。


 申請の事務は交付より簡単だ。申請書に記入してもらい、タブレットで写真を撮り、オンラインで送付して終了。慣れてくると、想定外のハプニングが起きなければ、五分もあれば十分だ。


 申請者はピークの二月と比べるとかなり減ってきているが、それでも、一日平均で十人前後は来ている。保険証を廃止してマイナンバーカードに統一するという国の方針が示されたため、そのことの質問も多い。「今のところそのような方針のようですがどうなるかは不透明です」という柿川さんがしていた説明を拝借して、私もオウムのように同じセリフを言っている。納得せず食い下がって来たら、柿川さんや嶋野に助けてもらう。


 二週目はやはり落ち着く。環境にも雰囲気にも慣れたということが大きいが、交付する件数がやや減って来たことが大きいようだ。ポイントの手続きを行わなければいけない期限が九月に繰り下がった影響が出ているのだ。慌ててカードを受け取らなくても良いという心理が働いているのは明確だ。明らかに窓口が空いている時間帯が増えて来た。人の事はとやかく言えないが、現金な奴が多いというのが分かる。


 おかげで、カードが溜まる一方だ。はけていくカードは少なくなり、一方で、ピーク時に申請した大量のカードが毎日届いている。


 この日も特段のトラブルもなく退庁の時刻を迎えた。


 嶋野に挨拶をして席を立った。柿川さんは相変わらずいつの間にか消えていた。


 区役所の出口に向かっていると、田中さんが立ってこちらを伺っているのが見えた。私を見て軽く手を振った。その態度から、どうやら私を待っていたようだ。


「やあ、どうした」

「ちょっとお願いがあるのだけど、これから三十分くらい、時間大丈夫?」

「ああ、どうせ家に帰ったら、酒飲んで寝るだけだから」

「ごめん、お疲れのところ」

「いや、大分慣れたので、疲れもそれほどじゃないよ」


「実は、これから、彼と食事するの」

「ほう、順調だね」

「彼はね、まだマイナンバーカード持っていないのよ。それで、今日、ついでにスマホで申請するの。私がやってあげる予定なのだけど、ちょっと自信がなくて、ベテランの担当者にお手伝いお願いしようかなと思って」

「お安い御用だよ、五分もあれば十分さ」


 申請業務もかなり数をこなしているので問題は無い。業務ではタブレットで行っているが、スマホでもやり方は同じだ。


「ありがとう、助かるわ。すぐそこのマックで待ち合わせなの」


 駅前のハンバーガー屋さんに入って、二階の客席に上って行った。

「私が一人で来ると思っているから、彼、きっと驚くわよ」


 田中さんがぐるりと客席を見回した。

「あ、いた」


 窓際の席に座っている男性に向かって田中さんが手を振って小走りに近づいて行った。私もやや足を早め付いて行った。


 案の定、彼は驚いた顔をしている。


「カードの申請に自信がないので、専門家を連れて来ちゃった。区役所で、マイナンバーを担当している山岡さんよ、こちら谷口さん」

「始めまして、山岡です」


 彼が立ち上がり、苦笑いしながら頭を下げた。

「谷口です」


 田中さんが私を座るように促した。


「私、コーヒー買ってくる、やましんさんは何が良い?」

「ああ、僕は何もいらない。これから晩酌なのでね。お酒が不味くなってはいけないし」


 田中さんが頷いて去っていった。


 谷口さんはなかなかイケメンだ。鼻立ちがスッとしている。はにかんだように微笑みながら上目遣いで私を見る様子からは、他人に気を遣う優しさが感じられる。


「デートの邪魔をして申し訳ないです。申請が終わったらすぐに失礼しますので」

「いいえ、とんでもないです。わざわざすみません」


 色々と聞きたいことが心に浮かんだが、そこは我慢しよう。田中さんの相手がどういう男かわかっただけでも満足だ。この男なら上手くいきそうな気がした。


「ええと、では早速ですが、申請書とスマホをお借りしていいですか」


 彼が鞄から申請書を出して、横に置いてあるスマホと一緒に差し出した。それを手に取って操作を始めた。名前やメールアドレスなどは彼に入力してもらったが、それ以外は私が操作した。やがて、受付完了のメールが届き申請が完了した。


「はい、これでオーケーですよ。あとは、カードが出来たら葉書が届きますので、区役所に取りに来てください」

「もう完了ですか、意外と簡単なのですね」

「初めてやると戸惑うでしょうけど、私は毎日やっていますから」


 彼がスマホを手に取り電源を切って横に置き、申請書を鞄にしまった。ちょうどそのタイミングで田中さんがコーヒーを持って来て、彼の隣に座った。


「終わったよ」

「え、もう終わったの?早い」

「じゃあ、私はこれで」


 私が立ち上がると彼も立ち上がった。


「ありがとうございました。今、色々問題が出ているようで大変なのでしょう」

「そうですね、でも、だいぶ落ち着いて来ました」


 田中さんも立ち上がった。


「急にお願いしてごめんね、本当にありがとう」


 私は手を振って挨拶し、立ち去った。


 マスコミが毎日のように宣伝してくれているので、マイナンバーカードの知名度が急上昇だ。おかげで、このように、担当する私が関わる世界が広がっていく。注目されたり、感謝されたりすれば、誰であれ悪い気はしない。そう考えると、この仕事も悪く無い。

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