Case:1 母親


アパートは昼間に訪れたときよりも一層寂れて見えた。


外壁の塗装はところどころ剥げたままで、

雨が伝った後が灰色の染みになっている。


元は「ひらさかアパート」と書かれていたであろう表札も

「さ」のところがとれかかってぶらぶらと揺れている。



そこには先客がいた。



「あ、陽明! おはよう」

「おはようじゃねえ! お前はもう関わんなっつっただろ!」



あくまでも小声で怒鳴る陽明に、花は耳をふさいで見せる。



そう、アパートの敷地前にいた先客とは他でもない花だった。

陽明は苛々とした様子で花の方へ近寄る。



「帰れ。今すぐ帰れ」

「でもほら、もうここまで来ちゃったし」



花は悪びれもせずちろりと舌を出してみせる。


元来可愛らしい顔立ちをしているが、陽明には響かなかったようで、

思い切り頭をはたかれた。


舌をかんだ花は涙交じりの悲鳴を上げる。



「興味本位で足を突っ込んでいい案件じゃ――」

「そんなんじゃない!」



言いつのる陽明を真剣な花の声が遮った。

黒目がちな瞳が、真っすぐに陽明に向けられる。



「こうた君は今きっと一人ぼっちですごく寂しい思いをしてる。

 誰かが、私が、本気で心配してるってことを伝えてあげたいの!」



思いがけない花の気迫に押され、陽明が言葉を詰まらせる。

黒目がちな瞳が、たくさんの光をたたえて陽明を見上げている。


本気なのだ、と陽明はため息をついた。


花は、初めて会ったあの時から、本気であの子どもを心配し、

連れ戻そうとしているのだと。


陽明はその真っすぐな気持ちがまぶしかった。

戸惑いを覚えるほどに。



その時、二人の前に黒い車が止まった。


車は、派手なワンピースに身を包んだ女を吐き出すと走り去った。

女はふらふらとした足取りで場違いなピンヒールを引きずりながら歩き出す。


陽明はそれを目の端でとらえつつ花に向かって言った。



「これが終わったら帰れよ」

「うん!」



花の表情がぱっと明るくなり、陽明は再びため息をついた。




◇◇◇


「ちょっといいか」


陽明が後ろから声を掛けると、女はゆっくりと振り返った。


まだ若いのだろうが、脂が浮き寄れたファンデーションが、

細かい皺をかえって浮き立たせている。


無理やりカールをつけた髪は逆に脂っけがなくぱさぱさとしていて、

ところどころ色の抜けた細い毛が額に幾筋か張り付いている。


ほとんど口紅のとれかけた唇がゆっくりと動き、酒にやけた声が吐き出される。



「あんたたちだれ」

「俺は探偵だ」

「私はその助手です!」



いつの間に助手になったんだ、という陽明の小言に構わず、

花は陽明の胸ポケットから名刺を抜き取ると女に渡した。


女は脚を止めて陽明の方に向き直り、それを受け取る。



「鬼隠し専門探偵?」



女は名刺を裏返してみたが、カードに書かれた文字はそれだけだった。



「なんだ、弁護士か何かかと思った」



女はそう言うと口の端だけ持ち上げて笑った。


金のチェーンがぶら下がった小さなハンドバッグをまさぐり、

煙草を取り出すと口にくわえる。

やにで黄色くなった歯に口紅がついていた。



「探偵か。あいつ、探偵なんか雇って、いまさら何? 

 私からこれ以上何が取れると思うわけ?」



女はうわごとのようにつぶやく。

酒に酔っているのだろう、ろれつの怪しい物言いだった。


陽明は軽く眉を顰めると言った。



「不倫調査や浮気調査で来たわけじゃない。

 俺が聞きたいのは、子どものことだ」

「……こうたの?」



女の顔色がさっと変わった。

手が震えるのか、うまく煙草に火がつかない。


女はしばらくライターを鳴らしていたが、

舌打ちをすると地面に煙草を吐き出した。


ピンヒールが火のついていない細い煙草を踏みつける。


花が身を乗り出すようにして続けた。



「そうです! 息子さん、行方不明ですよね? 

 私たちこうた君を探すお手伝いを――」

「何言ってんの。こうたは部屋で寝てるよ。

 第一、あんたらに何も関係ないでしょ」



女は苛立たしげに言った。


細い指に縮れた髪をせわしなく巻き付ける。



「そんなわけありません! だってもう二週間も学校に来てないって!」

「だから、それが何だって言うんだよ!」



女は絶叫した。

擦れたアイラインに囲まれた目が赤く充血している。



「何って……、あなた、お母さんじゃないですか!」

「うるせえよ!」



女が叫んだのと乾いた音が路上に響いたのとが同時だった。



「陽明!」



花が悲鳴のような声をあげる。

花をかばった陽明の頬は赤くうっ血し、唇の端が切れていた。


女はさっと手を引くと、

胸の前で握りしめ、顔を逸らした。



「俺たちは、あの子どもを取り戻したいだけなんだ。

 あんたを責めるつもりはない」



陽明の、色の薄い瞳が、真っすぐに女性に向けられる。



「な、なにを言って……」



女性の声に先ほどの威勢はなかった。


自分がつけた傷を恐れるかのように、陽明の腫れた頬から視線を逸らす。

震える声は、おびえた少女のようだった。



「ゴム手袋」



陽明の言葉に、女性がはっとした視線を向ける。

不安げに瞳が揺れた。



「あんたはゴム手袋をしないとあの子どもに直接触れなかった。そうだな」

「あ……」



女の口から声が漏れる。



「けどそれは、裏を返せば、そんな風にしてでも

 あんたはあの子の世話をしてやってたってことだ」


長い前髪の下で女の瞳が揺れる。

乾いた唇がかすかに開いた。


「自分の子どもに直接触れない。不安だったろう。

 それでも助けてやらないと生きれない子どものために、

 あのゴム手袋は、あんたがした工夫だった」


女は黙って、自分の腕を身体の前で抱いていた。


花は、陽明の後姿を見つめた。

比較的小柄な背中が、何かに耐えるようにふるえているような気がした。



「正直に答えてくれ。

 あの子は今一人きりで、帰り道を失くしている。

 あの子が帰ってこれるかは、あんたにかかってるんだ」



夜が明け始めている。


町全体がうっすらと光を帯び、

空には藍色のグラデーションがかかろうとしていた。

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