鬼隠し専門探偵事務所
とうま
プロローグ
桜が燃えている――。
月のない夜空に、小さな炎に身を焼かれた薄桃色の花弁がいくひらも舞う。
何年もの時を超えてきたであろう古い樹皮は橙の炎に包まれ、
ぱちぱちと苦しげな音を立てて燃えている。
火に包まれた桜の木々に囲まれるように、
赤く照らされた社殿がぼうっと浮かび上がる。
照り返しにゆらめく石畳を進んでいくと開け放たれた拝殿の向こうに、
本殿の奥がうかがえる。
本来であればしっかりと閉ざされているはずの本殿の扉が
重々しく両側にひかれている。
本殿の奥、やはりこちらも開かれた厨子の奥から、
何かさらさらとした涼やかな音が聞こえてくる。
川の流れる音――?
思わず本殿へ足を踏み入れようとした時だった。
「そっちにいってはだめ」
柔らかい、けれど毅然とした女の声がして私は足を止めた。
振り向くと、ひときわ大きな桜の木の下に髪の長い女が立っている。
女の足元には宵闇に紛れてしまうような黒猫がまとわりついている。
女は降りかかる火の粉から守るようにして腕に何かを抱えていた。
「君、どうしてこんなところにいるの?」
女は慌てたようにこちらに駆け寄ってくると
目線を合わせるように屈みこんだ。
若い女だった。まだ十八かそこいらだろう。
豊かな長髪は炎を照り返して艶めき、
濃いまつげに縁取られた瞳は大きく炎を揺らしていた。
「わからない」
そう答えた私は少年の声をしている。
傷つき、不貞腐れ、擦り切れたガラスのような心細い声。
女の視線を避けようと、私は無意識に制服の裾を引き延ばした。
今朝殴られた腹がしくしくと痛み出す。
先週の背中のやけどはどうなっているのか、鏡なんて随分見ていない。
「君、名前は?帰り道、わかる?」
帰り道――?
そういえば、私はいつからここにいたのだったか。
どのようにしてやってきたのか、どこへ行こうとしていたのか、
何も思い出すことができない。
私に名前などあっただろうか。
ずいぶんと長い間呼ばれていない気がする。
黙り込んでしまった私を女は険しい表情で見つめた。
形の良い眉の下で瞳が半眼となり
まるで何か別の世界を見ているかのような表情をしている。
「君はサカイに留まりすぎてしまった。
魂も、道標ももう失われてしまってるわ」
女は静かに言った。
ぱちぱちと桜の爆ぜる音が聞こえる。
でも、大丈夫。
女はそう言うと悲しげにほほ笑んだ。
女の細い首筋で銀の鎖のロケットが炎を映して揺れている。
「あなたのこと、帰してあげる。でもその代わり、お願いがあるの」
女はそう言うと腕に抱えていた包みをそっと差し出す。
私は訳も分からないまま、思わずそれを受け取った。
柔らかく清潔な布に包まれたそれは、生まれて間もない赤ん坊だった。
小さすぎる口を薄く開け、浅い呼吸を繰り返している。
「この子も一緒に連れて帰って。絶対、お願い」
女はそう言うと今度は自分の胸にそっと手を当てた。
重ねられた掌の下から柔らかな光があふれ出す。
女は引き抜くようにそれを掴むと私の胸に押し当てた。
光はまばゆい帯となり私の首に巻きつき、ひときわ強い風が吹く。
いよいよ桜を燃やす炎は火柱となって夜空に立ち上り、
風に散らされる花弁が小さな火の玉となって視界を覆いつくす。
女の姿は今や見えない。
「行って。その光の帯があなたの道標になってくれるわ」
「待ってくれ、あんたはどうするんだ!」
私は女に向かって必死に腕を伸ばした。
女は炎の向こうで柔らかなまなざしをこちらに向ける。
「生きて」
女の黒髪に炎が燃え移るのが見えた。
一瞬にして女の身体が赤い炎に包まれる。
私は腕の中の赤ん坊を抱えなおすと女に背を向けて走り出した。
炎がちりちりと肌を焼くのを感じる。
まぶしさに目を開けていることができない。
炎の熱と光とが視界いっぱいに広がり私は思いきり目をつぶった。
遠くで、川の流れる音が聞こえた気がした。
◇◇◇
次に目を開けたとき、私は本殿の焼け焦げた床に転がっていた。
いくつもの怒号や足音が飛び交う。
「おい!いたぞ!」
「妊婦がいるはずだ!探せ!!」
消防隊員とみられる男が駆け寄ってくるのを視界の端でとらえたが、
身体はまったく動かない。
何かしきりに話しかけられているのだが
耳の奥が詰まったようになってうまく聞き取れない。
焼かれたのどが燃えるようで声も出せなかった。
視線だけでだらりと伸ばされた自分の腕の先を見やる。
制服は焼け焦げ、ところどころ敗れていた。
赤く焼けただれた指の先に、女が一人倒れている。
ひどいありさまだった。
髪は焼け焦げ、衣服もほとんど焼け落ちてしまっていて、
赤茶色に焼けただれた太ももが露わになっていた。
消防隊員が女を仰向けにすると、しばらく言葉に詰まった後、
首を横に振るのが見えた。
桜の木の下で会った女だった。
あなたのこと、帰してあげる――
女の声が頭の奥で聞こえる。
私は痛む腕を引きずるようにして胸元に手を当てた。
ひんやりとしたロケットが首かぶらら下がっている。
火の燃える音が、川の流れる音が、耳の奥にこびりついて離れない。
目の前を幾本もの光の帯が絡み合い、ゆらゆらと揺蕩うのが視える。
――捨てるはずの命だった。
再び遠ざかろうとする意識の中で私はゆっくりと記憶をまさぐった。
しかし意識は、記憶は水に映ったおぼろ月のようにとらえどころがなく、
指の間をすり抜けてすぐにその姿を崩してしまう。
私はゆっくりと深い闇に身体が沈み込んでいくのを感じた。
返さなければ。
私はそのまま気を失った。
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