黒き森の狼 ~ある狩人の日記より~

十万里淳平

序幕-オルドネス山-

第1話 雪山

 抜けるような青空の下、一匹のユキヒョウが哀しげに遠吠えをしていた。


 山肌一面を覆う雪の中、わずかに雪の白とは異なる色彩が見え隠れしている。

 衣服の端が、雪の中から顔を覗かせているのだ。


 ユキヒョウは遠吠えを続けている。


 やがて雪を踏みしめて一人の人影がやってきた。


 口元を覆うマフラーを、グッと下げ、その顔を露わにする。


 狼の顔を持つ人間――『獣人けものびと』だ。


 彼は、刀傷のある目元を細め、小さくため息をついた。


「随分と困ったモンを見つけたじゃねぇか……。」


 ユキヒョウは少々不満げな顔を見せ、グルル……と唸った。


「わかったわかった! コイツは助ける。

 山の掟は守らなきゃならんからな。

 だが、この鹿は置いていくぞ?

 さすがに人間と鹿をいっぺんに担いでいったら、今度はコッチが行き倒れだ。」


 そう言うと、獣人は背負子を下ろし、それに結わえていた獲物の鹿を、雪の上へとドサリと下ろした。


 ユキヒョウは、恨めしそうに鹿を眺めている。


 そんな様子を見た獣人は、ユキヒョウへと一言声をかけた。


「食べるんなら今のウチだぞ?」


 彼はそれだけ言うと、雪の中に埋もれている『何か』を掘り出し始めた。


 手を使い、大きく雪をかき出す。

 その下にあるのが想像通りの物であることを、彼は確信していた。


「女……か。」


 雪の下には、顔を蒼白にした女が横たわっていた。


 豪奢……と言うほどではないが、身なりはそれなりに立派で、およそ雪山とは縁のない服装だ。

 顔を見ればかなりの美形で美しい黒髪を長く伸ばしている。

 男なら十中八九、見れば視線を奪われることだろう。


 まだかすかに息がある。


 それを確認した獣人は、その女を雪中から引きずり出し、背負子に腰かけさせた上でロープを使って固定する。


 ユキヒョウが、口元を血に染めて獣人の隣へやってきた。


「食事はもういいのか?」


 ユキヒョウは、ゴロゴロと喉を鳴らし、満足そうな顔を見せている。


 それを見た獣人は、ニヤリと笑って、背負子を静かに背負い、立ち上がった。


 視線を山頂へと向けると、真っ黒な雲が湧いて出ているのが見える。


「急ぐぞ。」


 山肌を滑りつつ降りていく獣人と、それに続くユキヒョウ。


 抜けるような青空の下、チラリと白い物が舞った。


 秋――収穫祭も間近なこの季節。

 オルドネス山の急峻な西の斜面には、もう雪が降り積もる。


 例え危険なこの季節であっても、カーライル帝国とマウル王国の国境のこの山を無理に行き進もうとする者は数知れない。


 白い物は徐々に数を増やして、視界を遮り始めた。

 獣人は滑り降りる距離を伸ばし、速度を上げた。


 ユキヒョウはその速さを見て、華麗に雪こぶを跳び伝っていく。


 やがて彼らの背後で、落ちるような速さを見せて雪が降り出す。


 吹雪が始まった時には、もう獣人もユキヒョウも、その斜面から姿を消していた。


 吹雪は恨めしそうに轟々と風を唸らせる。

 まるで獲物を取り逃したけだもののように……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る