たりないはらわた

 健全な精神は、健康な肉体に宿るという言葉がある。

 ならば、私の肉体には、死ぬまで健やかな精神は根付かないだろう。


 実を言うと、私には大腸がない。つまりが足りない。

 子供の頃、持病の治療の手段として全摘出の手術を受けたからだ。闘病生活の仔細を書くこともできるけれど、病気について周知したいだとかの啓蒙的な意向はまったくない。悪戯心というか、軽い言葉遊びのつもりで「はらわたが煮えくり返る」という慣用句を弄っただけ。つまりは、煮えくり返るほど腹が立つ、という意味だ。


 露悪的な解釈を足すのなら、不健全な精神を、「臓腑の欠損」というかたちで表現したともいえる。先に断っておくと、皮肉の類であって、病人や障がい者に対する差別を肯定するような意図はない。これで「言質を取った」としたり顔をする読者とは仲良くなれないだろう。


 作品と作者は、まったくの別物であるとはよく聞く話だ。

 私自身は爪の垢ほどの憐憫もないくせに、人間に対して寛容な作品を好む。

 作者の人間性や人格と、作品の倫理観が必ずしも合致するとは思わない。むしろ、そこに乖離があってしかるべきであるとさえ考えている。とはいえ、作品と作者は不可分な関係にあり、作者の指向や思想が投影されることは大前提として意識しなくてはならない。


 とすれば、私の作品は思考実験の類なのかもしれない。

 現実に対して、どこまで妥協できるのか、譲歩できるのかを見極めるための試行。恐らく、作品そのものからは、人間に対する皮肉に満ちた血生臭さが脱臭されているはずだ。私の腹を割れば、どす黒い憎悪を溜め込んだ墨袋が見つかるにちがいない。他人様の目に晒せないような憎悪や怨嗟を洗い流すため、自分の感情を切り分けて適切な下処理を施しているのだ。


 私は今でもを持て余している。

 存在しないはずの大腸が煮えるような腹立たしさを。その怒りはいつも、幻肢痛のように健全でない精神を苛みたがる。小説を書くことは、どうしようもない欠落を、欠損を埋めるための行為なのだ。であると同時に、執筆の過程で解剖された、自分という人間を晒してみたいとも思う。だから、そのための場を、稚拙なエッセイとして求めてみることにした。


 腹を割ってはいるけれど、血気盛んというわけではありません。

 血生臭さも、無節操な掲示板の書き込みに比べたら可愛い程度です。作品のこと、捻くれた洞察とともに、喪った大腸を悼みながら、足りないはらわたが痛む理由を探るだけの手記。教養がなくても、ユーモアに欠けていても、健やかならぬ言葉ならば綴ることができる。

 不健全な魂が、この不健全な肉体に宿り続けている限りにおいて。

 つまり、私のはらわたが足りないかぎりは永遠に。

 


 【補足】「健全な魂は健全な肉体に宿る」

 辞書を引くと、これは本来の文脈から逸した解釈のようです。

 どちらにしても、私にはこの言葉を願望とするのは不可能だと思います。



 

 

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