アプリコットフィズの、グラス越しの瞳を私に。

水浦果林

episode1

 ダークブラウンを基調とした四角い空間に、太陽光のようなランプが光る。

「レディ、隣の彼は?」

 カウンターに座っていた老人は、溶けたような目をした黒髪の女に声を掛ける。老人の瞳は慈悲深く細められ、高貴な紳士のテーラードジャケットのボタンに、潜むように女の影が映る。


 女は実に美しかった。

 濡れたような黒髪には、照明をすべて跳ね返す艶があり、赤く引いた口紅は、派手なのに、整った彼女の顔立ちの引き立てにしかならない。薄く開いたアーモンド目も、何処か光があった。気だるげなその様が印象を強める、妖艶な美人であった。


 女は、片手で揺らしていたアプリコットフィズのグラスを、液面を眠らせるようにくるりと回してから置いた。それから、老人の言葉に、一文字一文字丁寧に返すように唇を震わせ、隣に座る男と腕を組んだ。

「……私の、彼氏♡」

 スイートグレーのスーツに身を包んだ隣の男は、女に向けて、優しく微笑むのみであった。


○○○○○○○○○○○○〇


生坂いくさか先生、お疲れですか?」

 職員室の机に突っ伏していた時、数学担当の春樹はるき先生が、優しく微笑みながら、ぼくにコーヒーを手渡してくれた。ぼくと同じ二十三歳の若手の教員で、更には急遽退職した先生の代わりに赴任してこられた先生だというのに、ぼくよりも何倍も落ち着きがある。退職なさった先生に変わり、担任すらも持っている。

「ありがとうございます、春樹先生。疲れている……というより、今日も失敗ばかりで、少しばかり落ち込む時間を作ろうと……。」

「……なるほど?」

 曖昧さが混じるぼくの言葉に、春樹先生は困ったように笑った。

 ぼくは、中学校の社会科教師を勤めている。生徒たちはぼくの授業を真剣に聞いてくれて、定期試験でも高得点を取ってくれる生徒が多い。

 しかし、生徒から『少し抜けているところがある』と言われてしまうくらい、ぼくは失敗が多い。できる対策は全てしていても、それでも失敗をしてしまう。

 周りの人の完璧さに、ただ憧れることしかできない自分が憎い。自分が少しでも周りを頼ることができた、学生時代が遠く思える。

 しかし、実はそれだけではない。いや、しょげる原因を大きく作ったのはこれだけれど、他にもある。

 実は、この春樹先生が、要因の一つであったりするのだ。

 春樹先生は、退職なさった先生の代わりに、夏季休暇明けから赴任してきた。ぼくたち教職員にとっても、彼の顔は新しい。

 そう。この珍しさに、目を奪われている人間が一人いるのだ。

 家庭科教師、辰野たつの茉緒まお。ぼくと恋人関係にある女性だ。

 人間の心変わりは残酷で、彼女が抱くその感情に気づいてしまう自分が、あまりに可哀想にすら思えてしまう。決して、今まで彼女に渡してきた言葉は偽りなどではなく、彼女に向け続けた愛も、大切だと思った心も、痛いくらいに自分の中に残っている。


 しかし、彼女に非はない。これは、こんな未来しか作ることが出来なかったぼくの責任で、彼女は想いのまま、純粋に人を好いただけだ。春樹先生と隣に並んで、ぼくは彼に勝る部分は一つとしてない。人と比べるものではないけれど、不器用に生きてきたぼくに、彼女の心変わりを浮気だなんだと、声に出す権利は毛頭ない。

 自己肯定感の低さも影響していると思う。でも、それでもぼくは、茉緒の熱情が自分に向けられていないことに、口を出すことはできない。

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